自分のことは話すな(吉原珠央)より

(1)相手はこちら側(私)の話に興味がない
(2)あなたの話はムダだらけ
(3)「自分をわかってほしい」と思うことほど傲慢なことはない
(4)ニコニコしている人ほどあなたへの評価は厳しい
(5)「質問」にあなたの全てが表れる
(6)雑談が多い人ほど自分に甘い
(7)プライベートなことを聞かないほうが失礼である
(8)「信仰、政治、病気」の話題を避けるな
(9)話したいことの5割をカットせよ
(10)「いかがですか?」という聞き方はするな
(11)当たり前のことばかりを発言するな
(12)「質問に答えるだけの人」になるな
(13)心に刺さる言葉だけを使う

・過去を振り返ってこそ、文明は成熟する(五木寛之)

未来を話すのが18歳、過去を話すのが81歳。
(ちょっと待った!私は現在72歳(2021/8/1)、まだ9年あるぞ!
と言いながら、気が付いたら81歳なのだ。)


・人の言うことを聞かないのが18歳、人の言うことが聞こえないのが81歳。



あ_憧れたこと
(1)幼少の頃、屋根のある歩道で4人で遊んでいた。
急に強い雨になった。
その時小学1年の女の子二人がハンカチを頭にのせて
キャーキャー言いいながら走り込んできた。
その時の小1の女の子が非常に大きなお姉さんに見えた。
その笑顔を見たとき自分も早く小学生になりたいと思った。
そしてハンカチを頭に乗せたかった。

(2)札幌医大の和田教授による、
日本で最初の心臓移植の記事を目にした時(1968年8/8)。
世界で30例目。これだと思った。

(3)幼少の頃(1952年、昭27頃)
明治チョコレートが欲しかった。
ぼくちゃんの店の手の届かない高い所にあった。
その頃の私のこずかいは1日5円、
日曜日は10円であった。
チョコレートの値段は20円。
結局いつも眺めるだけで買えなかった。

(4)幼少の頃、紙芝居をせんべいを食べながら一番前で見たかった。
せんべいは確か5円ぐらいしたと思う。
その頃の私の楽しみといえば、
友人と5円玉を握りしめてヒガキの店を
半日うろつくことであった。
くじを引いたり、どの駄菓子にしようか。
飴玉にするか、ビー玉にするか。
紙芝居のせんべいを買うと
その楽しみが奪われるからである。
初めは家の陰から見ていたが、
だんだんと前に進み、みんなの後ろから見るようになった。

(5)鉄道模型。幼少の頃、
松山の三越で鉄道模型の前でしがみついて動かなかった。
当時はとても高価であった。

小学生になって、HOゲージはまだ高価だったが
Oゲージは、「子供の科学」を見ながら
自分で線路や電車を作った。


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う_嬉しかったこと
(1)戸塚第一中時代、
ある私立女子高校の説明会での事である。
説明会の後、
戸一中から2人、高校側から2人で
麻雀を囲んでの話し合いをした。
この高校へは私のクラスにいた
Mさんを紹介していた。
彼女は明るく真面目で品行方正で
申し分ない子であった。
高校での生活ぶりも話してくれた。
予想通りの模範生であった。
来年もMさんのような生徒を
ぜひ紹介してくださいという話であった。
麻雀をしている間、
私は彼女の楽しく活躍している
高校生活の話を聞いて
嬉しくてしょうがなかった。

(2)小学3年の時、
Ni君と二人で新しく勉強屋(塾)へ
入塾した。
10人ぐらいいたと思うが、
丁度時計の針の問題に
みんな取り組んでいたところであった。
なんと後から始めた私が
最初に解いてしまった。
先生に褒められた。
中学なら方程式で簡単に解けるが、
小学3年である、
どうやって解いたのか全く覚えていない。


(3)私がパリに行ったときです。
セーヌ河畔には、
当時千人ほどの無銭旅行者であふれていた。
昼間は、きれいな観光地なのに、夜になると、
どこからともなくスリーピングバッグを、
手にした若者が集まってくるのだ。
本当に世界中からで、
英語なんて世界の一部の国しか
通用しないという事を実感した。
イモムシのようなスリーピングバッグが、
ずらっと一直線に並んだ光景は、
異様であった。
警察官が、
毎晩人数や治安の点検にやって来ていた。
しかし、私のパリ4日目には、
こん棒片手に全員を逮捕し始めた。
私はなすすべを知らず
このまま捕まってしまうのかと心配であった。
すると、隣で寝ていたドイツの青年が私に
「俺に付いて来い」と言ったのです。
嬉しかった。二人で必死に逃走した。
彼は、
もう一ヶ月ほどパリに滞在していたため、
寝場所の情報は、かなり持っていた。
ノートルダム寺院の中にある芝生の上が
警察も来ないし最高だというので、
その夜は二人でそこで寝た。
しかし、朝、神父に見つかり、
警察に突き出すと言う。
またまた、
その青年と必死で塀を乗り越え逃走した。

(4)私の香港・マカオ14日間一人旅
1971年夏(昭46)。
台湾丸、1万t、イギリス船、基隆-香港、
往復食事付1万円、
全員指定ベッドなので予約が要る。
一日の経費が宿泊費や食費も全て含んで
800円以内で
過ごさなければ
日本に帰れなかった旅であった。
ガイドブックによると一番安い宿泊施設は
YMCAで一泊850円であった。
この為に友人はこの旅から降りたが、
私は強行した。
香港へ行く船の中で
マレーシアの青年のグループに会った。
安宿の情報を聞いた。
すると「俺たちの部屋で寝ればいいよ」
嬉しかった。
私は最悪の場合は
公園で寝袋で寝るつもりであった。
ヨーロッパはこれで通用したが、
香港である。少しは心配であったからだ。
現に買い物をしても香港ドルとUSドルを
うまく使い分けしていて
日本人と見ると高く売りつけられた。

(5)高校の修学旅行での事である。
見学を終え私はバスの座席に着いていた。
後から私の好きな彼女が乗り込んできた。
後ろの方にいる仲間から声がかかった。
ところが彼女は私の横の座席が
空いているのを見て横に座った。
嬉しかった。
中学から3年間ずっと塾が同じであったが、
話し合ったことはなかった。
共通の話題がないので、話しかけれなかった。
すると彼女は私の肩に頭を置いた。
そして少し私にもたれかかってきた気がした。
寝ていたかどうかはわからない。
しかし、私の気持ちは最高であった。
ドキドキしたと思う。
彼女は友人が多く、
いつも周りを明るくする女性である。
もし後ろに座っておれば
笑い声が絶えないバスになっていたと思う。
私の隣に座ったばかりに
バスが静かになったような気がした。
当時彼女は
梓みちよのファンであったのは知っていた。
そのあたりから話しかければよかったのでは
と今では思っている。

(6)小学5年生の時、研究授業があった。
光の屈折の学習であった。
理科室はかなりの数の先生で
取り囲まれていた。
みんなもカチカチに緊張しまくっていた。
私が最初に発表した。
後で担任の先生に褒められた。


(7)私にはH病院の事務局長を
していた時代があった。
バレンタインデーで40個余りの
チョコレートをもらった。
高校を出たての若い看護師からであった。
当然、義理チョコである事はわかっている。
ただし、院長にわからないように
一人一人にお返しをするのも大変だった。
それにしても
非常に嬉しかった出来事であった。

戸塚一中時代は、朝学校に行くと、
学年の先生方全員の
机上にはバレンタインデーの
チョコレートが置かれていた。
生徒たちの口止め料であろう。
教師たちも、
その日の生徒たちの行動には
目をつぶったと思う。

今治南中では、バレンタインデーの日には
生徒たちもカバンの中は
チェックされると思っているので、
さまざまな場所に隠すのである。
ここなら大丈夫だと思った場所であろう、
女子トイレの水槽の上である。
ザクザクと出てきた。


(8)今治南中時代のことである。
遠足で生徒を引率していた途中であった。
女生徒から「先生!あの女の人
先生に挨拶しているけど、誰ですか?」
見ると、三叉路の交差点で、
軽四輪トラックが停車して、
生徒達に道を譲っていた。
運転席を見ると女性が満面の笑みを浮かべて、
こちらを見ていた。
私が中学3年の時に
一目惚れをした彼女
であった。
そこには、20年前に私を虜にした
あの笑顔があった。
少しおばさんに近付いているという
感じはした。
私を一目見て思い出してくれたのであろう。
有難かったし、
こんなに嬉しかったことはない。
遠足の桜井の海岸では、
生徒と一緒に球技を楽しんだ。
勿論、気分は中学3年生であった。
今だに彼女と言葉を交わしたことはない。


(9)昨年の春(2017年、H29)
伯方島の開山へ、桜を見に行った。
途中交通渋滞に出会った。
私は、てっきり交通事故だと思った。
こちらは原付バイクなので、
どんな車が事故を起こしているのか
興味深々前へ進んだ。
なんと、開山まで続いていた。
聞くとみんなネット情報を聞いて
駆け付けたようである。
嬉しかった。
開山の桜も見上げたものである。
確かに見る人の心を震わすものを
持っている。

思えば、私が最初に西伯方中に
赴任したのは、1979年(昭54)。
入学式のあと、塩崎教頭が、
みんな開山へ行こう。
あそこのさくらは綺麗よ。
弁当を広げていたのは、
我々だけであった。
当時は、この辺りには食堂がなかったし、
島には信号機も
たった一つしかなかったと思う。

しまなみ海道が開通し、
夏の花火大会と開山の桜の季節には、
伯方島に人々が訪れるようになった。
こんなに嬉しいことはない。


(10)小学5年と6年の2年間、
毎日のように野球部で練習した。
この時期、ボーイスカウトでも活動した。
しかし残念ながら、写真が1枚もない。
中学校では、3年間バスケットボールをした。
1回戦ボーイとからかわれていた
チームは3年生になり、
今治市で優勝し、
愛媛県大会で3回戦まで行った。
この県大会で、たった1枚私のフリースローの写真を
取ってくれた仲間がいた、嬉しかった。

(11)小学6年の時、
二人の女の子にお誕生日会に呼ばれた。
作ってくれた、チキンライスはイマイチの味であったが、
琴の演奏にはうっとりした。


(12)「YOUは何しに日本へ」の番組で
ハンガリーから来日した女性がいた。
「おそ松くん」の映画を世界で一番早く
見たかったからだという。
その中でシェーのポーズをとって見せてくれた。
このポーズは私が中学3年生の時、
クラスの梅沢君がよく教室でとっていたポーズである。
55年も前のことである。
その後、「おそ松くん」も世界中に
広まったったのだと思うと,うれしくなった。

(13)山丹正宗が最高金賞
今治唯一の酒蔵が快挙!
山丹正宗「純米酒」
世界の女性ワイン専門家による「フランスで最高金賞」
「フェミナリーズ世界ワインコンクール」
日本酒部門、最高金賞

この山丹正宗は、私の実家の国道を挟んだ目の前にある。
この工場のY君とは同じくらいの年であった。
この子とは、絵合わせのパズルでよく遊んだ。
他の友人は貧乏なので(?)、このゲームは持っていなかった。
だから幼児期は何時もこの広い酒工場の空地で遊んだ。
酒瓶に貼るラベルをこっそり持って帰った。
当然私の宝物であった。

(14)浪人時代の友人K君(新潟高卒)が、私に言った。
「俺、立教大(理学部)を受験しようと思うんだけど、
一緒に受けないか」
一人では心細いという事であった。
私は当時、受験するのは医学部か工学部であったので、
考えておくと返事した。
その後、A君(新潟高卒、たれ目で可愛い男)が
受けてくれるとの事。
受験日が1月下旬で早かったこともあり、
私も一緒に3人で受験することになった。
 結果は、私一人のみが合格。
しかし、K君は北海道大学(工)合格。
A君は新潟大学(工)と早稲田大学(理工)に合格。
この時点では私は、立教大(理)は
受験のリハーサル程度にしか考えていなかった。
私立大(医)も 6校(慶応大医、日本医科、東京医科、
日大医、順天堂大医、仙台医科)受験するので、
どれかに合格するだろうと、甘く考えていた。
 私は、国立Ⅰ期は鳥取大学(医)を受験した。
受験の前日、旅館で同じ医学部の受験生と
一緒にお風呂に入った。
立教大(理)の話をした。
すると、彼は「立教大には原子力研究所もあり、
素晴らしいではないか」と言ってくれた。
なぜか詳しく知っていた。私は、嬉しかった。
医学部がだめなら、国立Ⅱ期は
静岡大学(工)を受けるつもりであった。
国立Ⅱ期は他に2校(岐阜大医、弘前大医)願書を
出してある。親には悪いが、
静岡大学(工)より、立教大(理)の
方がいいのではないかと思うようになった。


 (15)辰嶋先生の話「体調を崩して入院していたが、
その病院の外科部長が長浜雄志君だった。
もう教え子たちもそんなに立派になるほどの年月が経ったものだ」

 先日、小泉豊君からTELがあった。落ち着いていて低音の声であった。
中学生の時の、声変わり前の高声しか知らない。
当時は、高橋先生も彼は少しおっちょこちょいで、
落ち着きがないからなあと言っていた。
だから私の子供の名前も「豊」にしようとしていたが止めた経緯がある。
この話をすると、彼は「もう61歳ですよ
(山口百恵と同世代なのだ)
中学生の時とは違いますよ」と、
落ち着いた返事が返ってきた。教え子の成長ぶりに感激。

 岡本文里さん、東京医科歯科大学を出て医者になった。
しかしスウェーデンに行ったまま帰って来ないとの事。


(16)郷土ゆかりの作家たち第34回現代美術展(2022.2.5)に行った。
何気なく工芸の「ピアノ」の説明を見た。
"イマジン"の文字があった。
もしかしたらビートルズ?
なら同世代の人の作品に違いないと思い、名前を見た。
青野保夫(京都府)。
あれ!”やっぽん”ではないか。
他に「どっと・横ライン」という、和服のデザインの作品。
そういえば、10数年以上前の同窓会で会った時は、
髭を伸ばして、芸術家らしい雰囲気を
プンプンまき散らしていたことを思い出した。
その後も頑張っていたと思うと、うれしくなった。


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お_驚いたこと
(1)中3の夏の夜。
Y君と二人でレコードを買って店を出た直後、
M中の1年生らしき小さな生徒に
「チョッと付いて来い」と声を掛けられた。
しぶしぶ付いて行った。
我々2人とも体は大きいが、
気が弱い証拠である。
こちらは自転車、いつでも逃げられた。
I泌尿器科の病院の暗い中庭に連れていかれた。
まもなく、M中の不良仲間10人ほどが
やってきて取り囲まれた。
当時の今治商店街はM中の不良の縄張りであった。
「金を出せ」という。
「持ってない」と答えると、ジャンプしてみろという。
私は、学生服の内ポケットに入れた
財布の中の小銭の音がしないように
胸を思いっきり張ってジャンプした。
ところが、Y君の小銭の音が聞こえてしまった。
すると、番長らしき大きな子が一歩前に出て、
Y君の顔を思いっきり殴った。
この時私は、一瞬思った。
番長が前に出た分、50cmほど隙間ができた。
このままでは自分も
ボコボコにやられるのは目に見えている。
ただ私は足には自信がある。
200m走、今治市内で2番。
しかし残されたY君はどうなるのだろうか。
しかし逃げるには今しかない。
番長がもとの位置に下がればもう逃げられない。
その瞬間私は大声で「人殺しだ!」「人殺しだ!」と
叫んでその隙間をすり抜けた。
私の声は今治中の人みんなが
聞こえるぐらいの大声を出した。
何しろ、もし誰も来てくれなかったら、
我々2人とも殺されるかも知れないと思ったからだ。
だから連中が私のすぐ後ろを
追いかけて来るものだと、てっきり思っていた。
ところが、連中の逃げ足の速いこと、
私とは逆方向に一瞬にして消えてしまっていた。
それにしても誰も助けに来てはくれなかった。
よく見るとこの付近は町のど真ん中なのに、
夜は人のいない、暗くて寂しい場所である。
連中はよくこんな場所を探していたものだと思った。
今思うとこの後、警察に届けておけばよかった。
この場所で、何人もの子供たちが
カツアゲにあったと思うからである。

(2)東北地方のキャンプ場でのこと。
テントの中から聞こえる音楽がなんと民謡であった。


(3)小学3年のとき、静かに試験を受けていた。
するといきなり「母ちゃん、これどうやるん」と
No君の声がした。
クラス全員びっくりした。
No君(愛光中・高→中央大法→弁護士)の家は
母親が塾を開いている。
いつもこうやって勉強をしているのだなと思った。

(4)マイコンの雑誌を見てみると、
コンピューターとは
複雑な計算をする機械だと思っていた。
ところが、麻雀をするプログラムがあったのだ。

(5)高縄山に登った時、お寺の縁の下にいる、
不気味なガマカエル(ヒキガエル)を発見した。
始めてみるその大きさに驚いた。

(6)小学6年のとき、近見山が燃えた。
生徒全員校舎から、心配そうに眺めた。

(7)小学1年のとき、よくS君の家へ遊びに行った。
2階の部屋に入るのが楽しみであった。
雨戸を閉めているので真っ暗である。
ところが、雨戸に小さな穴が開いているので、
すりガラスに外の景色がきれいに映って見える。
ピンホールカメラである。
車の動きなどが逆に映り飽きることはなかった。


(8)戸塚第一中のとき、
労音の切符が余っているというので
先生方と渋谷に芝居を見に行った。
舞台は伯方島。
旧家が没落していく劇で、
主役は西田敏行だった。
K先生がこの島は阿部先生の
近くの島ではないのかと言った。
私の愛媛での最初の勤務校が
この伯方島とは驚きであった。


(9)戸塚第一中時代、
試験が終わり評定が出ていた時であった。
静かな職員室なのに、
ある2年の先生から歓声が上がった。
オール5が出たとのことであった。
この生徒は私は理科はずっと4を付けていた。
今回初めて5を付けた。
というのはテストの成績だけでは4なのだが、
態度・自由研究・ノートの点数を
加算して初めて5を付けたのだ。
コツコツと頑張る真面目な子であった。
科学的に鋭い考えができるとかいう子は
クラスに2~3人はいる。
しかし体育・音楽や美術等では5は
取れていないようである。
私も、中学2年の時にオール5は取った
しかし、この子と同じように
頭がキレるというのではなく、
真面目な生徒だったと思う。
それにしても私も16.5年教師をしてきたが、
オール5を見たのはこれ1回きりであった。


(10)新聞で松山のミスコンテストで
準ミスに同級生の名前を見つけた。
なにしろ小学校の時は、
明るいけどちょっと小太りで
ミスコンとは縁のないと思うような女の子であった。
さっそく友人と彼女の店に行ってみた。
同級生がみんないた。
確かに色が白く、
準ミスといえるぐらいの美人に変身していた。
たったの6年でこんなに変わるとは
みんな驚いていた。


(11)伯方中と西伯方中との陸上競技大会でのことである。
私は3段跳びの計測をしていた。
わが西伯方中のK君が跳んだ時、
自分のスパイクで左手小指を踏んだようだった。
大したことはないと思ったが、
痛そうにしていたので私が見てみた。
すると小指から3~4cm噴水のように
血が噴き出した。
こんな先まで動脈が来ているのかと驚き、
急いで救急車を呼んだ。


(12)私が香港より基隆へ帰る時のことである。
台湾丸、1万tで私から見たら豪華客船である。
金髪のビキニ姿の女の子が一人でいた。
当然、声を掛けてみた。
最初は、Were are you from? から始めます。
England.パイプ椅子に座っていろいろ話した。
足を見ると産毛が非常に多かった。それも長い。
産毛も金髪で
遠くから見ると全く気がつかなかった。
これには私も非常に驚いた。

(13)ローマでは若い女の子を見たら、
片っ端から声を掛けているプレイボーイがいた
何と言っているのか傍によって聞いてみた。
You speak English ? であった。
英文法なんて、適当でいいのだ。


(14)戸塚第一中での家庭訪問での事である。
この私が生徒の母親に
一目惚れをしてしまったのである。
絶対に行きたくなったので
お店の名前を聞き出そうとしました。
「先生方の行くお店ではないのですよ」、
ショックでした。
と同時に、ああ銀座のお店なのだろうなあと
直感しました。
その後、生徒たちが問題を起こしたのです。
不純異性交遊です。
この生徒も10人余りいた一人でした。
当然母親たちを学校に呼び出しました。
ところが、この母親がいません。
そんなはずはないと、
よくよく見るとスッピンでしたが、いました。
メイクでこんなにも変わるのかと驚いたものです。
それにしても、
私は戸塚第一中に6年半いましたが、
生徒が問題を起こしたのは、
この件と万引き一件のみでした。


(15)私の長男が幼少の頃、
お祭りでお面を買ってあげた。
スパイダーマンのお面です。
付けるといきなり強くなったポーズをとった。
そして私たちにいどみかけたのです。
お面のパワーは半端じゃないと驚いた。
宗教も同じなのかなあと思った。
宗教を信じられる人は確かに強くなれるのでしょう。
何しろバックに仏様や神様が付いているのだから。
私は科学の信者ですが、
強くなれるのかなあと思う。
ただあの不確定性原理がくせ者なのだ。

宗教を信じられる人は幸せだと思う。
例えば肉体的に強くなろうとしたら、
ジムに何年も通わなくてはならない。
精神的に強く生きるためには普通の人は、
かなりな勉強や努力や経験が
必要であると思うからである。


宗教とは、一つの決心であると思う。
つまり、
神の存在を信じるか信じないかである。
神は存在すると決めたとしよう。
そしたら、ある宗教に入信します。
そしてやがて、強い信仰を得て
安心立命の境に至るのですが、
この”強い信仰を得る”という事が
なんと困難なことか。
果たしていかに立派な宗教人といえども、
自分の死に際して、
絶対に神の存在を信じて死んでいける人が
何人いるでしょうか。
また、私のように神の存在を
否定したとすると、
”人生とは何か”,”宇宙とは何か”,
”存在とは何か”の解決は
人間の手で、科学の手で行わねばならない。
これもまた、苦しい道であり、誰かが言ったごとく
”科学とは、神に背く、悪のなせるわざ・・・”
でありましょう。
勿論私たちの生きている間に
解決はつかないでしょう。
また、その認識が
人間という有機生物を通して通して行われる以上、
そこには限界があるのかも知れない
(近藤 S)

(16)孫正義さんは
ソフトバンクを立ち上げる時に、
銀行から1億円もの融資を受けた。
この何がすごいのかというと、
担保も保証人もいないのに借りれたという事である。

当時はパソコンの出始めであった。
「コンピューター、
ソフトなければただの箱」の時代である。
パソコンのメーカーもその事はよくわかっていた。
孫さんはメーカーとソフトウエアをくっつければ、
これからの社会が望んでいるものである、
という鋭い先見の目を持っていた。

だから孫さんは、他社が開発したソフトウェアの
ソフトウェア・カタログに
約1000万円投資したのである。
私は自分の開発したソフトウェア・カタログに
20~30万円投資しただけであった。
この差である。

私のユニソン株式会社は、
NECのPC8001のソフトウエアは開発していたが、
他のメーカーのソフトウエアは開発していなかった。
このあと、私の会社にNEC、富士通や日立
とかのメーカーのパソコンが届いた。
新機種が出る場合はその前に送ってきた。
このパソコンでも動くソフトウエアを開発してください
という事である。
当時はRS232Cのケーブルを使って
プログラムを転送した。
勿論そのままでは転送できないので
配線をばらして繋ぎなおした。
その後BASIC言語を直していく作業が大変であった。
各社のBASIC言語も微妙に異なっているからである。

プログラムが、途中で止まる場合は比較的簡単に治る。
止まった部分を見ればまず原因がわかる。
医学(外科)で言えば、血管が切れたのが原因ならば
繋げばいいだけである。
ただしある場合は神の手でないと
手術が出来ない場合もあるでしょう。
今後は手術ロボットの開発に
期待がかかるものと思われます。

問題は、プログラムは動いているのだが、
結果がおかしい場合である。
この場合、何が原因なのか処理の流れを
追って原因を突き止めなくてはいけません。
病気(内科)で言えば、熱が出る患者さんがいる場合、
何が原因で熱が出るのか、
これを突き止めるのが難しいと思います。
名医と呼ばれる、経験豊富な医師の出番である。
今後は人工知能(AI)の力を
借りていくようになるかもわかりません。

(17)私が、西伯方中に勤務していたころ、
朝の出勤時に出会った島の人々は
みんな私の車を見ては、挨拶をしてくれた。
東京ではそんな経験はなかったので、最初驚いた。
よく見ると、小さな村なので、
出会った人はみんな挨拶を交わしていた。

車はブルーの、日産サニー、Excellent。
これは、中澤先生が、「島での生活には、車がいるだろう。
私の車を持って行きなさい」
と言って、もらったものである。
お陰で島での生活の3年間、毎日お世話になりました。
ありがとうございました。

(18)私が小学生1~2年生のころである。
1956年、昭和31年頃。
私の家族はみんな映画が好きであった。
なんと、両親と子供3人の5人家族が、
よく1台の自転車に乗って、映画を見に行っていた。

(19)小学6年生ごろだと思う。
「酸とアルカリ」のテストがあった。
前日は早く寝たので、睡眠時間はバッチリである。
目をつぶると、なんと教科書が、全部見えるのである。
ページをめくると、次のページも見える。
暗記の得意な子はこんな状態でテストを受けるから、
出来るのであろう。
しかし、現実は、一夜ずけでテストを受けることが多い。
睡眠不足なのである。

(20)台湾旅行で、最初に見たのが、「口可口楽」である。
読みを聞いて驚いた。「コカ・コーラ」の事であった。
日本語に、カタカナを発明した先祖に感謝!

(21)パソコンの動きが、悪くなり、廃棄しようと思ったが、
分解し、掃除機で、ファンに貯まったゴミを吸い取った。
生き返った。

(22)「ワープロで書いた文書は、
公式には使用できません。」
を見たとき。1979年、昭和54年頃である。
プリンターのドットも荒く、
一文字の中の横線が足りないからであった。

(23)年頃の女の子が、
「お父さん臭いから、近寄らないで」という言葉に、
何となく、分かったようになったこと。
これは、あるテレビで、
①男女10人が自分の着ているシャツを脱ぎます。
②お互いのシャツのにおいを介ぎます。
③いいと思うシャツから、いやと思うシャツを順に並べます。
すると、遺伝子の近い異性のシャツは臭く、
遺伝子の遠い異性のシャツはいい香りと、判断された。
結婚するときは、なるべく遺伝子の遠い、
相手を選んだほうが、いいということだと思います。

(24)大学2年生の時、
ヨーロッパ32日間一人旅をしていたときである。
 ロンドンのディスコでは金髪の女の子と踊った。
職業を聞いたが、
返事は north (ノース:北から来た)であった。
しかし、実際は nurse (ナース:看護婦)であった。
イギリス英語とアメリカ英語の違いである。
フィリピンでは、
No(number:ナンバー)の事をナンベルと発音する。

(25)学生時代、ITAの仲間と沖縄旅行をした。
レンタカーを借りてひめゆりの塔の観光をした。
1971年当時の沖縄はまだ米国であった。
ですから、自動車は右側走行であった。
私がハンドルを握った。
車の多い町中の運転は大丈夫であった。
ところが、車の少ない田舎の道で、車を停車した。
道路の左側に無意識のうちに止めていた。
体にしみ込んだ習慣というのは、恐ろしい。
事故らなくてほっとした。
自分でも驚いてしまった。

(26)戸塚一中で理科を教えていた時である。
夏休み中の宿題として「理科の自由研究」を出していた。
休み明けの理科の時間は、その発表をさせた。
大体一人当たり3分程度がほとんどである。
T君は「水の研究」をしてきた。
その発表があまりにも素晴らしかった。
生徒も次の時間も発表の続きを聞きたがった。
結局2時間も水についてT君の研究発表を聞いた。
理科の自由研究は10点満点で評価して、
理科の成績に付け加えていたので、
生徒も力が入っていた。

(27)幼少の頃、パッチン(メンコ)やコマでよく遊んだ。
ある時年上の”くにぼう”が言った。
「橋の向こうにいる連中とパッチンをやってみたいなあ」
その時、蒼社橋の向こうは、別の世界だと思っていた。
幼少の頃の世界は、いかに小さかったか
当たり前ではあるが、
当時は考えたこともなかったので驚きであった。

(28)「今日の日はさようなら」は私の好きな曲の一つである。
なんと、この曲の作詞・作曲は金子詔一である。
立教大学理学部出身で私の先輩であった。

金子詔一:作詞・作曲
(1) いつまでも絶えることなく
友だちでいよう
明日の日を夢見て
希望の道を
(2) 空を飛ぶ鳥のように
自由に生きる
今日の日はさようなら
またあう日まで
(3) 信じあうよろこびを
大切にしよう
今日の日はさようなら
またあう日まで
またあう日まで

(29)女性の巻きスカートの方法がなんと64通りもある。
これは「世界ふれあい街歩き」
のハワイの街歩きで見たのである。

(30)敬老の日に世田谷区より
高級な厚みのある座布団が届いた。
おかしいなと思いながら聞いてみた。
我が家には82歳の老人がいるはずとの事。
どうやら私の生年月日が明治24年とのこと。
正しくは昭和24年なのに、間違いであった。
58歳多くなっていた。

(31)「ポツンと一軒家」でシキビ栽培農家があった。
しきび について。
常緑樹。厚みのある葉、ゆるやかに波打つ葉の形。
マツブサ科シキミ属。強い香りと毒がある。
動物・害虫よけになるが、ペットや子供には注意。
しきびは仏教に、さかきは神道に使われる。

(32)山形県長井市には山形工房がある。
競技用けん玉生産量は日本一である。
世界42カ国に輸出。
けん玉にはなんと3万種以上の技ができる。
この町には私の友人もいる。


(33)
私の友人に建設会社の社長がいる。
時々、その道の人(暴力団)が来て、
こけし人形を事務所に勝手に置いていくという。
「もし、私がいる時に、その道の人が来たら追い返してくれんか。」
と頼まれたことがある。
理由を聞くと、その後、みかじめ料として、
毎月数万円請求されるのだと言って、怒っていた。

この話を聞いた時、
私はNHKのやり方と同じではないかと思った。
何しろ、勝手に電波を出して、
NHKの受信料を強制的に取っているからである。

私は、NHKは見ない。
デジタルの時代、NHKだけを見えなくするのは
技術的にも実に簡単である。
なぜしないのか、全国民に分かりやすく説明をして欲しい。
国営放送にしている国もあります。
高橋洋一氏によると、Eテレを分割し公共放送にすれば、
受信料は月200~300円で十分と言っています。

NHK役員は現在毎月266万円の給料を取っています。
内閣総理大臣でさえ、月154万円である。実に1.7倍である。
私はNHKを写ら失くしたり、
公共放送にしないのは、
NHK役員はこんなに多くの給料が貰えなくなるからだと、
思っています。
NHK役員にぜひ反論して欲しい。


(34)
幼少の頃、真夜中、母親の騒がしい声で起きた。
父親が急いで裏庭に駆け付けた。
飼っていた鶏二羽が
イタチに襲われたのである。
家では八羽の鶏を飼っていたとの事。
当時は、今治市の町中心地にも
イタチがいたのである。


(35)体育館で走っていたら、途中で、いきなり転んでしまった。
友人は「何かにつまずいたのだろう」と言ったが、
そんな事はない。右足が急に上がらなかったのである。
思うに、足に血液が流れなかったのだと思う。
血液の流れが悪くなった。もしかしたら血栓か?
65歳頃の時である。


(36)ソフトボール大会で、2塁走者であった。
仲間が左中間のヒットを打った。普通なら3塁で止まる。
しかし、レフトからの返球が少し右にそれた。
それを見た私は、足には自信があるので、
一気にホームまで走りこんだ。
ホームでは、キャッチャーのタッチを避ける為に、
左側に回り込んで、
右手でホームベースにタッチした。
辛うじてセーフであった。これで同点になった。
この時、右手に違和感のある痛みがあった。
この後この試合では勝ち、次の試合に臨んだ。
次の試合の途中で右上腕の骨折をした。
 後で分かった事だが、ホームベースにタッチした時に
右上腕骨にヒビが入ったのである。
私は、骨は硬くて丈夫であると思っていたので、
まさか、これぐらいで骨にヒビが入るとは驚きであった。
54歳の時である。(2004/11/3)


(37)今治市のH公民館で卓球をするには、
次の条件を守れる人のみである。
①マスク着用
②シングルスのみ
(ダブルス禁止)
ちなみに、H公民館は5~7月はコロナの為に卓球禁止であった。
最も市営体育館やサンアビリティでする場合はこんな条件はない。

7月以降の市町別陽性者の状況(2021年8月13日時点)
今治市 陽性者数 51人(0.03%)/ 累計 278人(0.18%)
新型コロナウイルスの陽性者数1~5人/日、程度
今治市人口154,645人


(38)「NHKと朝日新聞と村上春樹を失くす会」
という紙面を何人かに送った。
すると、「私はこの失くす会には、入らないから脱退したい」と
電話があった。
私の意見は安倍首相側であり、右翼の意見である。
当然、安倍政権を倒したい左翼の人は反対であろう。
私は、東京での教諭時代は共産党であったから、
東京の教師から反対と言われれば、ある程度納得できる。
しかし年配の愛媛の教師である。
どう見ても共産党とは縁のない教師であった。
私なら、最初の一行を見て、意見が違うと思えば、
そのままゴミ箱に捨てる。だから驚いた。


(39)バドミントンをやらない人には
よくわからない話かも分からない。
ダブルスで二人が横に並んで防御するside by sideがある。
この状態の時に二人の真ん中に相手のシャトルが来たら
どちらが打つ方がいいのかという課題がある。
二人共右利きなら、ネットに向かって左側の人を
優先にする方が合理的であると思う。
なぜなら初心者の試合では、もし優先を設けないのであれば、
二人で一つのシャトルを打つために、
ラケットがよくぶつかるのである。
ラケットがぶつかるだけであれば、特に問題はない。
(私のように\7,500のラケットなら問題はないが、
周りのギャル(50年前)は3万円近いラケットを使用していました。失礼。)

しかし、シャトルが高い場合は、ペアが見えなので、
ラケットを握る指を直撃してケガする場合が何度もあった(1.5年に一度)。
先日は「自分の頭の傍をかすめるラケットのシューという音を聞いて、
すごく怖かった」と話した女性がいた。
 この話を年配の男性に話すと、「優先権の話なんて、聞いたことがない。
どちらが打とうと自由である」と答えた。
私は現にケガをした人がいるので危険ではないですかと聞くと、
「ケガをしないように打てばいい」と言った。
私は、驚いてしまった。
私は、確かに上級者ならペアの動きが読める(?)から
ケガをしないように打てるかも知れないが、
みんな初心者である。そんな気持ちの余裕などないと思う。
私はこの人は、ルールブックに書いてあったり、
立派な人が言った事は、信じるが、
どうすれば危険から避けられるか、
自分の頭では、判断できないのではないかと思った。


(40)やはり、中国は歴史を捏造するプロであった。
下記をクリックすればわかる。
「南京事件は4度あった」 小名木善行
https://www.youtube.com/watch?v=E0qRG4cG_T4&t=416s

「この動画は、悪意のある表現の禁止に関する
YouTube ポリシー違反のため削除されました。
悪意のある表現に対する各国での取り組みをご確認ください。」

と表示されます。
つまり、
中国共産党員は日本のどこにでも潜んでいて
中国共産党にとって都合の悪い情報は
どんどん削除されている
ことが,これで分かります。

「南京事件は4度あった」 小名木善行 の内容は、

1 第一次南京事件(大正2(1913)年)
2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)
3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)


これが本当の歴史ですが、
これだと中国共産党にとって都合が悪いのです。
なぜなら
3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
の時に、日本軍によって
30万人の中国人民が
虐殺されたことにしないといけないからであろう。

30万人という数字は
広島と長崎の2つの原爆での死者数の合計21万人
超えた数字をという事で、出てきたものと思われる。
しかし、当時の南京の人口は
20万人しかいなかったのだが。
もっとも村上春樹は
40万人虐殺と言っています。

「南京事件は4度あった」 小名木善行
http://unisoni.iinaa.net/senkaku3.htm#nankin_4do

中国の歴史とは、
王朝の正統性を証明するためのもの。
中国共産党がいかに勇敢で正しくて、
いかに人民を解放させてきたかが、
彼らにとって必要な歴史になる。
そのためにどんどん作文をする。

歴史とは作るものであり、
その創ったものが事実であるかどうかは関係ない。
それが彼らにとっての歴史認識である。


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お_思い込み
(1)バイクに乗っています。
と聞くと原付50cc(125cc以下)のバイクだと
思ってしまう。
中には400ccや1000ccのバイクに
乗る人も結構いる。

(2)20歳の女性の車の運転は、
おとなしい優良運転だと思ってしまう。
しかし中には20歳の男性レーサー以上に
スピードを出す女性もいる。

(3)男の友人にだれかファンの人は
いるのかと聞いた。
すると「シェーンに出てくる、アランラッド」
と答えてくれた。
私はてっきりファンとは女性だと思っていた。
私も「シェーン」は大好きだし、
アランラッドはかっこいい。

(4)小学1年のとき、担任の先生が
「食事の前に手を洗う人は手を挙げて」と
言った。
私は当然全員手を上げると思っていたが、
上げない人がかなりいた。


(5)陸上競技大会の帰り、
私の車に4人の生徒を乗せていた。
後ろの車に抜かれたのだ。
するとある生徒に「抜き返して」と言われた。
すかさず抜き返した。
「前の車も抜こうよ」
追い抜くと生徒の気分が良くなったのか、
次は全員に「その前も」
気が付くと速度制限を遥かに超えていた。
はっとした。
よくニュースで正面衝突などの事故を
目にする。
運転手が全て悪いと思っていたが、
これ以降、同乗者にも責任の一端がある場合も
結構あるのではないかと思うようになった。


(6)人が悩むのも、マジックでだまされるのも
原因は同じ。
それは「思い込み」です。
<志村祥瑚・精神科医>

(7)暦の迷信の中に
<1>先勝…先んずれば人を制す。万事急ぐのがよい。
<2>友引…相打ち共引。勝負がつかない。
<3>先負…先んずれば負ける。万事静かにするがよい。
<4>仏滅…すべて凶。何事にも慎むこと。
<5>大安…すべて吉。何事もうまくいく。
<6>赤口…中間を吉、前後を凶。吉日ではないから慎む。

これは孔明六曜星とよばれるものからきている。
旧暦で1月は先勝から、
2月は友引からという順序で振り当てる。
孔明六曜星は中国の「小六壬」と呼ばれるものが、
鎌倉末期ごろに日本に渡って変化したものである。
しかし、清の時代には根拠ない迷信として暦書から抹消された。
ところが、別に友曳方という方角の迷信があった。
これは旅立ち、送葬、闘争の場合凶となる方角を示した。
子の日は卯の方角、丑の日は辰の方角、
寅の日は巳の方向を凶とする。
以下、卯・辰・巳の三つを
この順序で十二支に繰り返し割り振っていく。
この方角の友曳方の迷信と日の友引の迷信とが、
音が似ているせいか天保のころに一緒になってしまった。
その結果今日のように「友引の日には方角に関係なく
葬式を出すにはいけない。友を引いてまた人が死ぬ」
という事になってしまった。
ともかく仏滅の日には結婚式場はガラガラになり、
友引の日には火葬場まで休むという事態になってしまった。
しかし、もとをたどれば単なる六日ごとの繰り返しにすぎない。
丙午の迷信もしかりである。
科学的根拠の全くない迷信は中国ではとっくに、
使われないのに日本では未だに密かに受け継がれている。
まともに受け取る価値のない迷信は、
一種の「思い込み」であると思う。
小学校の時から、ちゃんとした理科や数学の授業を通して、
科学的な思考が出来るような人が
一人でも多く育ってもらいたいと思う。
日本人として恥ずかしい。


(8)新しく楽天モバイルを購入した。
SHARPのAQUOSである。最初の設定をあれこれしていると、
ある日突然、「すべての機能とデータを利用するにはロック解除」
と表示されて、スマホが使用出来なくなった。
「デバイスの再起動後はパスワードの入力が必要になります」
と表示され、パスワードの入力画面になります。
ところが、私は、スマホを買ったばかりで、
パスワードを登録した、覚えがなかった。
思い当たる7桁の数字を入力したが、ダメであった。
別のスマホのPINコードを入力したが、
ダメだった。16回間違えましたと表示。
そこで、楽天に電話したが、
このPINコードの件に関しては、SHARPに聞いてくださいという。
SHARPに聞くと、「4桁の数字を入力して下さい」と言う。
そこで、思い当たる4桁の数字を入力すると、一気に解決した。
どうやら自分は、PINコードはまだ設定していない
という思い込みをしていたようである。



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か_悲しかったこと
(1)戸塚第一中での家庭訪問での事である。
生徒は家庭におり、
終わったら次の生徒の家まで
案内をするのです。
途中、生徒との会話の中で、
色々と友人の話を聞ききます。
ここのA君は勉強がよく出来るので
私立のB中学校へ行ったとか、
国立のC中学校へ行ったとか
の話も聞くのです。
その時はなぜか悲しかった。
実は前の会社の上司から、
昔は公立の中学は荒れていた
という話を聞いていたので
余計そう思ったのかもしれない。


(2)中学1年の夏休み明けのことである。
私はそれまでの今治地方で採れる
全ての岩石を集めた標本を出品した。
カバーを掛けないで出した。
しばらくすると、ザクロ石、蛍石、
水晶、方解石
などの綺麗な石がなくなっていた。


(3)私には6歳上の兄がいました。
幼いころはよく、
織田が浜に投げ釣りに
連れて行ってくれました。
高校生の時は、
友人の新聞配達の後を受けて卒業まで続けた。
いつもはシングルピックアップの車に
乗っているのですが、
その時に限って50ccの原付バイクで
仕事をしていました。
車が一台通れるぐらいの脇道で
軽トラックと正面衝突。ひき逃げでした。
十数メートル飛ばされ、
林の中で座った状態で即死でした。
22歳でした。彼女がいました。
「小さな日記」を聞くたびに思い出します。



1965年夏、兄22歳、交通事故死。私16歳(高校1年)

(4)私は、パソコンのソフトウェアを300種類ほど作成した。
そして延べ1万人以上の人に販売した。
ただ、悲しかったことに3名の方からの
入金がなかった。
また、ソフトの販売会社の倒産があった。
(1人目)金銭出納帳2である。
メディアを変えて4本販売した。
広島県高田郡高宮町舟木3156-*の
石樵博**(TEL0826-57-044*)。
(2人目)選挙用名簿管理。
池田***。今治の市長にも立候補した。
結局落選したので、入金してくれなかった。
(3人目)アパート経営計画。
これは建設計画の概要、
建設計画、収支計画、借入金返済からなる
アパート経営計画書4枚を
作成するものである。
大手の大和ハウスが数億もする
大型のコンピューターで
4枚を打ち出していた。
M.S.(H産業)が言うには、
これをNECのPC8001で同じ表を
作成してくれという。
8bitでメモリも16KBしかない。
処理した結果はその都度
フロッピーディスクに書いていかないと
直ぐにメモリーオーバーになって止まった。
仕事をするのに、2m四方の机上でするのと、
20cm四方の机上でするのとの
差以上だと思った。
2~3ヵ月かかったが完成。
そのうちPC-9801でも走るようにと言われた。
漢字も使えるし、
メモリーも多いので移植した。
16bitでメモリは128KB。
しかし、金を払う段階になって、
銀行の支店長を呼んで
計算の処理方法を教えたので
相殺しろと言いだした。
こんなのは金利に関する書物を読めば、
どれにでも書いてある。
また、実際にアパートを
建設してからでないと
支払えないとか言う。
要するに何だかんだと理由を付けて結局、
支払ってくれなかった。
(4件目)他にソフトウェアジャパンが倒産。
40万円余りの売掛金が回収出来なかった。


(5)高校一年生の時、
私はクラスのレクレーション係であった。
LHR(ロングホームルーム)で歌を
歌うことになった。
私は当時好きであった
「星は何でも知っている」(平尾昌晃)
を歌うように言ったが、みんなは
こんなの歌えるかという雰囲気で
歌ってくれなかった。



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か_感激したこと
(1)小学5年生ぐらいの時、
近所の中学生が夏休みの自由研究で、
トンボの標本を作っていた。
ギンヤンマやシオカラトンボだと思う。
6匹がワイシャツのケースに
綺麗に入っていた。
その美しさに感激した。
自分も中学生になったら
こんな標本を作ろうと思った。
実際に中学生の時は、
この今治地方にみられるトンボは
竜岡の山奥まで行って全て採集した。
池にいるのだけど、
非常に神経質で捕るまでに
何日もかかったウチワヤンマ、
山奥で初めて見つけたカトリヤンマ、
腹が綺麗で透き通っていた。
大型で、動きが鈍く
意外に簡単にスポット、網に掛かった
オニヤンマが懐かしい。

(2)戸塚第一中での
2年合唱コンクールでのこと
である。
H君の指揮者ぶりも最高に上手であった。
中学生の合唱を聴いて、
体全体が感動のあまり震え、涙が流れた。
私の教諭生活は16年半。
毎年合唱コンクールをしたが、
こんな体験はその後はなかった。
ピアノ伴奏はSさん。改めてSさんを見直した。
指導していただいた担任の石川先生に感謝。
H君は現在、社会科の教諭。


(3)ひぐらしのセミの鳴き声である。
朝倉(今治市)の山奥に行った事がある。
山全体にひぐらしのセミの鳴き声が
合唱しているのである。
一匹一匹が協調してまさに、
山全体が揺れるオーケストラであった。


(4)PC8001を手にした初期の頃、
色々と、コマンドを調べた。
最初に感激した主なものは、次の3つである。

<1>ディスプレイ画面の色を決める
COLORコマンドを乱数で決めた。
部屋を真っ暗にした。
その色の変化を何時までも見ていた。

<2>行番号の付いた長いプログラムをいくつも組んだ。
この時 LLIST とコマンドを入力すると、
プリンターにそれまでの
プログラムのリストを延々と打ち出す。
これには驚いた。

<3>気象のデータ処理で、
風配図のプログラムを組んだ。
一日一日の風向のデータを入力すると、
一瞬にしてその月の円型の風配図のグラフを描いた。


(5)戸一中でのサッカー試合。
わがクラスのT君がジャンプしてバックシュートを決めた。
教室での授業中はぱっとしないのに、
サッカーの試合中は光り輝いていた。感激した。


(6)加戸前愛媛県知事の国会答弁を聞いた時。
1975年今治学園都市構想が出来た。
手を挙げてくれたのは加計学園のみ。
加計学園ありきで、15回申請。
その時の国会答弁を聞いた時は感激した。
残念ながら、その時の様子は
NHKのニュースや朝日新聞には報道されなかった。
それまで、私は、ラジオで
加戸前知事の話はよく聞いていて、
真面目過ぎて面白くないと思っていたから、
余計に感激。
現在の愛媛県知事は中村時広である。
加計学園ありきで進めてきたのに、
中村愛媛県知事の行動にはちょっとガッカリしている。


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か_感 謝
(1)私が香港より基隆へ帰る時のことである。
台湾丸、1万t、イギリス船である。
帰りの一日目は快晴。
しかし二日目に台風に遭った
船には、ずっと
「救命胴衣をつけて甲板に集合」の
サイレンが鳴っぱなしであった。
持っていった服を全部着込み、
靴下も2枚はいて甲板に出たが、
集合したのは私一人だけであった。
みんなベッドの中で寝込んでいた。
日本人を探したがいなかった。
当時は、
いつでも、飛び込む覚悟を決めていた。
そして西へ泳げば
いつかは
大陸にたどり着けれるだろうと考えていた。
現在ならば当然、救助隊が来るまで、
浮遊物にしがみついてでも待つでしょう。
船が傾き過ぎて
ガラスケースやガラスコップ等の殆んどが割れていた。
それ以上に怖かったのは、
船全体がきしむ音が
一晩中聞こえていたことである。
そのうちに分解するのではないかと心配した。
翌日の朝、アナウンスがあった。
私はそろそろ基隆に到着するのだなと
思ってよく聞くと、
基隆の到着予定は
翌日になるとのことであった。
私は、少しずつではあるが
船は動いていたと思っていたが、
24時間台風が通り過ぎるまで、
横波を避けながら、
ずっと停泊していたという事に
初めて気がついた。
沈没を避けた船長に感謝!感謝!感謝!


(2)小学生5・6年の時、野球の練習が終わった後は、
みんなの母親たちが、
私たち選手の為に
毎日温かいうどんを作ってくれた。
腹が減っていたので、本当に美味しかった。
ありがとうございました。
子供たちの野球を通して、
母親たちも交流があります。
このころの母親達が
一番楽しく輝いていた時代
ではないのかなと思う。
子供が中学、高校へと進むとだんだんと
母親の手から離れていくような気がするから。

(3)鬼怒川温泉の近くのスキー場に行った。
朝、スキー場に行こうと、
カローラのエンジンをかけた。
全くかからない。
よく見ると、冷却水が凍っていた。
不凍液を入れてなかった。
東京では必要ないからだ。
急いで旅館の人にお湯を借りて掛けた。
ラジエーターの氷を溶かすのに半日かかった。
結局スキーをしないで帰った。
それにしても冷却水が凍ると
水の体積が増えるので
プラスチックの蓋が飛ぶように出来ている。
もしこの蓋がないと
エンジン自体が壊れてしまう。
不凍液を忘れるボカスケユーザーの事も
考えてくれているのかもしれない。
そうだとしたらメーカーの人に感謝。


(4)1987年(昭62)11月23日
ヨットレース(ディンギー)

松山の堀江海岸であった。
今治ヨットクラブ6人で参加。
だいたい風速6m以上を強風というが、
当日は風速12mぐらいあったと思う。
レースの最中に松山大生の艇と
衝突しそうになったので、
私の艇を沈させた。
沈してもヨットはセンターボードに乗れば
簡単に復元できる。
センターボードはゴムが止めている為に
海中には落ちないようになっている。
ところが止めるゴムを使い過ぎて、
擦り切れているので
センターボードが
海中に落ちてしまったのである。
これを直すには海中に潜って
センターボードを穴を通して
もとに戻さなくてはならないのである。
ところがライフジャケットを付けているために
体が浮いてしまい、
深く潜れないのである。
海は風の為にすこし荒れているので
脱ぐ勇気がない。
その上普通の体操服なのである。
11月23日の海水は冷たかった。
この強風の為に沖の島へ数艇が流されている。
救助隊はそちらのほうへ
救助に行っているようだ。
そうこうしていると、コースを一周して、
先ほどの松山大生の艇がやってきた。
彼はライフジャケットを脱いで
私の艇の下に潜って
センターボードを直してくれたのだ。
レース終了後みんなで道後温泉に入って、
冷え切った体を温めた。
その後ヨットを修理し
ウエットスーツも買った。
ヨットのメンテナンスの大切さを
思い知ったレースであった。
それにしても自分のレースを犠牲にして
助けてくれた松山大の彼には感謝しかない。


(5)私の幼少の頃は、月光仮面、
赤胴鈴之助、
少年探偵団、海底人8823(ハヤブサ)、
七色仮面、等で
わくわく、どきどきしていた。
いつも自分は赤胴鈴之助になりきって
チャンバラごっこをしていた。
これらを作ってくれた人々に感謝!!


(6)私は小学4年生ぐらいから現在まで、
常に好きな女性がいたと思います。
その時々において
私をどきどきさせてくれもしました。
また、私の気持ちをワクワクさせて
くれたりもしました。
全く面白くもない場面でも、
その人がいるだけで
気持ちが明るく楽しくなりました。
何人いるかなあ。
思い出すだけで当時の若いエネルギーを
取り戻せそうです。

その時々に元気にさせてくれ、
そして私をどきどきさせてくれた
それらの女性みんなに感謝します。

また、女性だけではなく
私と関わり合ってくれた全ての人達に
感謝します。


(7)小学5年ぐらいの時、
運動会のポスターのこと。
クラスで一番いいポスターを
決めることになったが、2点残った。
私は運動会のタイトルを斜めに描いた。
もう一点は普通の横である。
私はどう見ても相手の方が綺麗だと思ったが、
クラスのみんなは私のを選んでくれた。
クラスのみんなに感謝。
どうってことないが忘れられない事である。



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き_危機一髪
(1)東京から新幹線で今治に帰る真夏でのこと。
新幹線の中はクーラーがものすごく効いていた。
半袖のシャツしか着ていない私は、
体が冷え切ってしまっていた。
途中の駅でホームに降りて体を温めていた。
ところが気が付くとドアが閉まろうとしていた。
もう間に合わないと覚悟をしたが、
私の荷物が列車の中に在るのを思い出した。
これはいけないと思い手を出した。
指先が辛うじてドアに挟まった。
そこから力の限り腕を中へ入れた。
肩まで入ると後は楽だった。
しかし、もしこの時、新幹線が動き出していたら
新聞に載りそうな事故になっていたかも知れない。

(2)車を停めて車外に出た。
ふと後ろを振り向くと私の車が後ずさりを始めた。
ハンドブレーキを忘れたのだ。坂道であった。
見るとすぐ後ろをタクシーが通過しようとしていた。
急いで車を止めようとして、バックミラーをつかんだ。
タクシーとの距離は数センチで辛うじて免れたが、
バックミラーは壊れてしまった。
実はこの時車検切れしていた。

(3)阿蘇山へ車で行ったとき。
日も暮れたので帰ろうとして車に戻ると
車のキーが車内に置き忘れていたのに気が付いた。
車のスペアキーはテールランプの中に入れていた。
プラスのドライバーがあればよいが、
ここは山の上で家はない。
阿蘇山の広い駐車場は着た時は
かなりの車が止まっていたが、
この時はたった一台だけになっていた。
仕方なくこの車の人が帰るまでしばらく待った。
運よくプラスドライバーがあった。
もしなければ車のガラスを割ろうと、
当時は思っていた。
しかし、落ち着いて考えてみれば、
黄色く小さなテールランプを割っただけで
スペアキーが手に入るのである。

(4)幼少の頃はまだ火鉢を使っていた。
中の灰を掃除しようとして、
中に在る円い鉄の台を取り出し、
横に敷いた新聞紙の上に置いた。
すると鉄の台はまだ熱かったらしく、
新聞紙からいきなり炎が出た。
私は「火事だ!」と大声で叫んで
一階にいる親に知らせた。
もし一階に親がいなければ、私はなすすべを知らず、
火事になっていたと思う。

(5)スキーに行った帰りの下り坂である。
チェーンは付けていたと思う。
道路にはタイヤの跡の4本の筋が等間隔に
深くきれいについていた。
前の車が慎重すぎてゆっくりと下っていた。
前からの車がなかったので、私が追い抜いた。
これで下りの2台で4本の筋を
全部使っていることになる。
これから元の左の筋2本に戻るのが大変であった。
溝の深さが意外に深く左にハンドルを切っても
なかなか戻れないのだ。
まず1本左へ移ったころに前から車が来た。
もう1本がなかなか寄れない。
前からの車は嫌がらせのように
スピードを落とさないのだ。
こちらはハンドルを左に曲げても溝を超えられない。
もう衝突すると思った同乗者3人の悲鳴が聞こえた。
その瞬間左に車線が移った。
雪道では前の車に素直に
付いて行くのが安全である。


(6)家族で九州でキャンプをした時であった。
河原でテントを張った。
夜中にテントの中に水が入ってきた。
そのうちにアルミの食器などが
浮かぶほど一気に水が増えてきた。
昨夜山のほうでかなりの雨が
降ったようであった。
急いでテントをたたみ車の中に避難した。
もう少し遅ければ
一家全員川に流されるところであった。



(7)西伯方中の馬越君からI/Oという雑誌を1週間取り上げた。
その中に「麻雀」のプログラムが載ってあった。
マイコンがあれば、出来るという。
調べてみると一番安いマイコンがコモドールであった。
\69,000ぐらいだったと思う。
これを購入する予定であった。
しかし「麻雀」のプログラムはNECのPC8001(\168,000)でないと、
動かないと知らされた。
彼の意見を聞かないで、コモドールのマイコンを買っていたら、
ただの箱になっていた。



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き_気になること
(1)若いのに車いすに
乗っている人を見たとき。
どのような壮絶な過去があったのか気になる。
聞けるとすれば
「探偵ナイトスクープ」でしょう。

<1>「探偵ナイトスクープ」と言えば、
聞きたいことが一杯あるが、
その一つに柔道の絞め技がある。
意識を失うまで(落ちるという)に
何秒かかるのか調べてほしい。
出来れば、男女別、年齢別に。
また、落ちる回数が多い人ほど
落ちやすいというが確かめてほしい。


<2>
私の教え子の中に、線維筋痛症で
苦しんでいた子がいた。
原因はわからないが、
全身が痛くなる病気である。
仕事はヨーロッパで頑張っていたのだが、
頑張りすぎたのか、
故郷に戻ってから発症したらしい。
私は、痛みは脳が感じるのであるから、
催眠療法が聞くのではないかと思っている。
ぜひ、探偵ナイトスクープで、
彼女に催眠術を掛けてもらえれば、
少しは良くなったのではと思っている。
残念ながら、
模範的な素晴らしい子であったのに、
45歳ほどで他界した。


(2)
女姓には怒られそうだが、
私の経験では女子の委員長に、
美人とか、かわいいとか、
言えるような子はいなかったように思える。
(もしおればごめんなさい)
しかし、みんな頭は切れるし、
清潔感もあった。
その上口数は少ないので
不思議な魅力がみんなあったように思う。
特に小学6年の女子の委員長Yさんは、
魔性の魅力があった。
男の子を惑わす目付きもしていた。
まさに剛力彩芽さんのような目をしていた。
端的に表れたのは、階段を登る時である。
下着が普通の女の子と全く違っていた。
まさにわれわれ男の子を
挑発しているようであった。
色は白だったが小さいのだ。
スカートも普通の子より
短いから余計強烈に感じた。
階段の手すりを触る手のしぐさも、
男の子を誘うような雰囲気があった。
母親は教師をしていたので、
そんな下着は選ばないと思う。
今度会う機会があったら、
あんな下着をなぜ買ったのか聞いてみたい。
気になることである。


(3)幼少の頃、私の家の前は
酒造会社である。
友人の工場でもある。
よくこの広い工場の周りで遊んだ。
お酒の瓶に貼るラベルを色々と集めた。
このラベルや当時大切にしていたものを
一緒に瓶に入れた。
この私の宝物を、家の前の歩道に埋めた。
舗装されてしまったが、
私の宝物はどうなっているのだろうか、
気になっている。

(4)私の初恋は映画の中であった。
幼少の頃、「猫だけが知っている」という
映画の中に出てきた女の子である。
私は吉永小百合ではないかと思っているが、
わからない。


(5)運とかツキ
私は、理系の人間ですから、
運とかツキの言葉は使いたくありません。
全て確率の世界として扱います。
つまり確率の少ない事象に出会ったときに
ツキがあるとか、ないとか言います。

しかし、私は以前、
麻雀をしていた期間があります。
この時は、今日はツイているとか、
今日はツイていないとかが、あるのです。
ツイている時は、
確率の少ない牌で待ってても上がるし、
確率の大きい牌を捨てても当たらないのです。
不思議な世界です。


(6)小学6年生の頃、
私は、バルサ材で、
ラジコン飛行機を作っていた。
友人のナカチュウは大きな19のエンジン、
私は、小さな09のエンジン機である。

しかし、二人には
もっと大きな楽しみがあった。
近所のヤゴシという自動車修理工場では、
実際に人間の乗る飛行機を作成していた。
その飛行機の製作現場を毎日のように、
二人で、見に行った。
この飛行機が、実際に飛んだのかどうか
見に行っていない。
どうなったのだろう。


(7)学生時代、後輩の女子学生に会った。
約50年も昔の事である。
「将来、青年海外協力隊に入って、
世界をよくしたい」と、
熱い夢を池袋の喫茶店で語ってくれた。
その後、夢が叶えられたのかどうか、気になる。


(8)2004年(平16)55歳、
今治東予地区大学校友会親善ソフトボール大会で、
右上腕骨骨折。チタン合金を入れたが、
この時の手術は普通は3時間程度で終わるようだが、
私の場合は4時間かかったというのだ。
理由はボルトを締める時にうまくいかなかったようだ。
今でもレントゲンを撮ると、1.5cmほどボルトが浮いている。
このボルトが、筋肉に引っかかるのではないかと、
バドミントンをするたびに気になる。

(9)同じ職場にいたOさんが、交通事故に遭った。
スピードを出していたスポーツカーに、
横から激突されたのである。
この時膀胱が破裂、緊急手術をしたが、
大きさが半分位になったそうだ。
私は最近トイレがあまりにも近くなってしまったが、
Oさんは大丈夫だろうか。


(10)気になる子が多い。今どうしているのだろうか?
1.ローマで知り合ったスペインの女の子
リアス式海岸のラコルーニャから来ていた。
妹の運転するフィアット600に乗せてもらった。
後ろの座席で二人で話した。
医学を勉強していた。
住所を書いてもらった紙を紛失してしまった。
反省

2.香港とマカオを二人で旅行した
マレーシアの女の子。
長い黒髪がつやがあって綺麗かった。
彼女といろいろ遊びたかったが
お金が無く、一日800円以上使うと
日本に帰れなかったのが残念。

3.山手線に乗っていると、
目の前に、インド人(?)とのハーフと
思われる綺麗な子がいた。
美術を勉強しているという。
一緒に日暮里で降りて、画材店を回った。
宗教上の理由で交際は出来ない(?)
とあっさりふられた。
現在も絵を描いているのだろうか。

4.マドリードで出会った化学を勉強していた彼
私の絵はがきに書いた「熱」という漢字を見て
お腹を抱えて笑った。
非常に真面目であった。
科学者になったのかな

5.代々木ゼミナール(予備校)で
一緒に勉強した彼女。
”せんだい”出身というので、
東北の仙台かと思ったら
鹿児島の川内であった。
教室ではよく一番後ろの席で並んで勉強した。
夜、公衆電話で毎日のように話した。
毎回10円玉を何十枚も使った。
こんなに10円玉を使ったのは彼女だけだった。
親は医者。
国立大の医学部を受けたが
医者になれたのかどうか気になる。

6.浪人時代の下宿は
代々木ゼミに通っていた10人。
その内5人は医学部志望。
残念ながら全員不合格。
ただし、S君の父親はすぐに
母校の私立N医大に電話をかけて、
裏口入学を果たした。
地理が得意で全国模試で
2番を取ったことがある。
本当は東北大学理学部地理学科に
行きたかったと言っていた。
英語も得意であった。
何しろ食事時は何時も親が
英語の単語のテストをしてくれるとの事。
真面目な子なので
いい医者になっていると思う。
あと3人は全て親が医者である。
北海道から来たJ君は甘いマスクで
映画俳優になれそうないい男であった。
M君は親がW県立医科大の教授の息子。
顔はまずいが、頭は良かった。
しかし、ボーリングとかの遊びが好きであった。
B君は私よりいい顔をしていたが、
おとなしかった。
みんな親の後を継いで
医者になれたのかどうか気になる。



7.私が中2の時、南予の愛南町城辺から
転校してきたA君がいた。
彼は鼓笛隊に入っていて、小太鼓が上手かった。
彼からは小太鼓の打ち方を教えてもらった。
また、私と文通をしたいというB子を紹介してもらった。
小柄であったが明るい彼女とは1年余り文通が続いた。
その後どんな人生を送ったのか?
今も南予のみかん山の傍で
生活しているのかどうか気になる。


8.文通と言えば、雑誌「中2時代」で希望したら、
オーストラリアのタスマニア島の中2の彼女から返事があった。
彼女とも1年以上文通は続いた。
私は、筆記体の英文で書いたが、
彼女は初めて見るようなブロック体の英文であった。
今はおばあさんだが、
その後どんな人生を送ったのか気になる。

9.学生時代、私は6畳一間の部屋で生活をしていた。
隣は、東北から来た青年二人が共同生活をしていた。
本屋に勤務していたがその会社の寮として借りていた。
二人とも、東北の真面目な好青年であった。
夜は彼らと3人で、よく話をしたこともあった。
飲み物は、いつもウイスキーを
多量のコーラで割ったものである。
ある日、おとなしい方の青年が帰らなくなった。
仕事が大変だと言っていた。
その後どうなったのか気になる。


(11).小学1年生(1956年.S31)の頃、
よく近所にある大劇の映画館で
「赤胴鈴之助」の映画を一人で見に行った。
この映画をまた見ようとして、
BSやCSの映画欄やネットを見るが、見つからない。
昔、東映かどこかの撮影所が
火災にあったニュースを見た記憶があるが、
もしかしたらその時に映画のフィルムも
焼けてしまったのかどうか、気になる。



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き_九死に一生
(1)1973年(昭48)7月、
私の会社も週休2日が始まり、
金曜日の夕方であるがもう暗くなっていた。
東京へ向けて帰る途中であった。
エンジンオイルも交換し、
気分新たにして、東名高速道路に入った。
車は三角窓のあるスバル360、
助手席には同僚のS君、
場所は大井松田付近であった。
ラジオから聞こえるのはプロ野球、
バックミラーをみたが、
走行車線には後ろには車はなかった。
そこまでは記憶に残っている。
次に気が付いたときは、
真っ暗な中、
ものすごく火花が飛び散っていた。
右手の小指が少し痛かった。
何が起こったのか最初はわからなかった。
目の前が道路であり、
車は横倒しであるのに気が付いて
初めて事故だと理解した。
両手は三角窓の1~2cmの枠の上に
乗っかかっていた。
ところが車がなかなか止まらない。
時速92kmで走っていたからである。
このまま後ろから追突されたら
最後だと思ったが、
なかなか止まらなかった。
車が止まると直ぐに
前の割れたフロントガラスから飛び出し、
ガードレールの外に出た。
しかしS君が出てこないので
急いで車に戻り、引っ張り出した。
 事故の原因は、
相手のトヨタカローラ1200ccが
追い越し車線を
時速100km以上で走っていた。
前後を大型のダンプカーに
ピタッと挟まれたため
運転していた社員(車は社長のもの)が、
助手席の社長に走行車線に
車がいるかどうかを聞いた。
すると社長は後ろを見て、
車がいないことを告げた。
社長は前を見ていなかったのである。
そこで社員は追突されそうなので
急いで走行車線に、
ハンドルを切ったのである。
すると目の前に私の車が
飛び込んできたということである。
事故の後私の車を見て、
私は死んだと思ったそうである。
何しろ1200ccと360ccである。
スバル360はガラスは全部割れ、
天井はめくれていて両サイドは潰れていた。
つまり、カローラが、
斜め後ろから追突した後、
スバルがすっ飛んで左ガードレールに激突、
ひっくり返り、天井を擦り、
その反動で横に置き上がり、
右サイドを下にして滑ったと思われる。

①もし、スバル360に三角窓がなかったら
私は即死であった可能性が高い。

②この時代はまだシートベルトを
する習慣のない時代、
高速道路に入るということで、
二人共シートベルトをしていたが、
もししていなかったら、
二人共即死であった可能性が高い。
私はS君がシートベルトをしていたせいで、
私の上にいるにもかかわらず、
S君の重みを感じなかった。

③大井松田はカーブの多い山の中である。
もし、道路がカーブしていてガードレールに
時速90km近いスピードで激突しておれば
二人共即死であった可能性が高い。
そんな事故であった。

この時双方とも自動車保険に
入っていなかった。
そこで、私の妻の知り合いに
当時早稲田大学の法学部の
大学院に行っていた、
鎌田薫(現在は早稲田大学総長)さん
がいたので
示談を頼んだら快く引き受けてくれた。
お陰でその後トラブルにはならなかった。
というか被害者は私なのだが、
相手に要求したのは
S君のメガネとスバル360の
全損3万円のみであった。
この後私はひどいむち打ち症に襲われ
約3週間は朝起きられなかった。
しかし会社に入社して間もなくであったので、
病院にも行かなかった。

(2)小学1年生のころ、
「赤銅鈴之助」の映画鑑賞について
学校から許可が出た。
日曜日の朝、
大劇の前に非常に多くの生徒が集合した。
そのために胸が圧迫され呼吸が出来なくなり、
非常に苦しかった。
肋骨の骨はまだまだ柔らかいのだと思う。
もう少しで死ぬのではないかと思った。
私は大きいほうだったが、
もっと小さい子や女子は
かなり苦しかったのではないかと思う。

(3)私が幼稚園児ぐらいの頃だと思う。
近所の子ども5~6人が
我が家の屋根の上にある洗濯物干し場で、
ままごとみたいなものをして遊んでいた。
すると、6歳下の弟が、転落した。
アッと思って覗くと、
大きい目をしてきょとんとしていた。
丁度1回転して足から落ちた。
下は大きなビワの木の下で
柔らかい土であった。
もし、頭や背中から落ちておれば
大変なことになっていた。



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き_恐 怖
(1)室蘭の地球岬へ車で
行った時のことである。
崖の下を見ると軽トラックが止まってあった。
あそこまで車で行けるんだと思って、
そこへ1200ccのカローラで降りて行った。
ところがその軽トラックは
タイヤのない廃車であった。
さあそれからが大変、
かなり急坂で未舗装で狭い。
タイヤがスリップし、ガードレールもない。
あと40~50cmぐらいしか
道幅はなかったと思う。
その横は高さ100mほどの
断崖絶壁なのである。
まさに地球岬そのものであった。
車が崖から落ちそうなので、
まず妻と2歳の子を降ろした。
アクセルを踏むたびに横にスリップする。
断崖から落ちるのではないか
という恐怖が襲った。
助けを呼びたくても誰もいなかった。

(2)小学校1年のころ
「ゴジラ」の映画を見た。
このころは映画と現実の世界の区別が
私にはついていなかったと思う。
映画館から出てもゴジラに
襲われるのではないかという
恐怖が付きまとっていた。

(3)中2の夏、バスケットボールの合宿で
大島でキャンプすることになった。
わたしは、約10人分の肉を
買っていく係であった。
この日は私は塾のテストがあったので、
みんなより後から行くことになった。
ところが大島の港で落ち会う予定の時間が
合わず会えなかった。
現代のようにスマホのある社会が羨ましい。
この日は大島の山で野宿することにした。
私はこの肉の匂いが気になった。
周りにはもしかしたら
肉食動物がいるのではないか、
この肉と一緒に
襲われるのではないかという恐怖を感じた。
山の中は真っ暗であった。
ただ湾に浮かべた船から聞こえた音楽のみが
私の和みになった。

(4)長野県の車山にスキーに行った帰り、
夕方遅くまで滑った。
あれほど多かったスキー客も
みんな帰った後である。
駐車場から道路へ出る急な道が
アイスバーンになっていた。
チェーンが滑って車が登らない。
そのうちに片輪のチェーンが切れてしまった。
地元の青年に助けを求めた。
後ろのトランクに乗ってもらって
辛うじて道路に出た。
助かった。
この片輪のチェーンで
東京までなんとか帰った。

(5)深夜であったが、
予約してあったので
高千穂の旅館に行くことにした。
途中かなり急な登り坂、
その上未舗装な砂利道であった。
タイヤがスリップしてなかなか登れない。
横には川が流れていた。
ガードレールもなく、
私は川に落ちるのではないか
という恐怖に襲われた。
周りには街灯もなく真っ暗であったので
少しは救われたのかもしれない。

(6)修理屋から借りた軽自動車が
東名高速道路で動かなくなった。
JAFを呼び、来るまで路肩に止めた。
バッテリーが上がるのを恐れて
テールランプは消した。
私の車のすぐそばをバスや大型のトラックが
何十台となく地響きを立てながら通り過ぎた。
そのたびに車が揺れた。
追突されたら私の命も終わりだ
という恐怖に襲われた。
JAFが来てから気が付いたが、
テールランプは点滅すればよかったのだ。
バッテリーが上がってもJAFがいるのだから。


(7)石垣島から台湾へ行く156t程度の船の中。
夏の夜は暑いので
みんな甲板で寝る。寝袋で寝た。
隣は女の子だった。
話しているのに顔が全く見えない
新月の夜であった。
その星空の輝きがあまりにも美しかった。
それだけでなく満天の星が
今にも降り注いで来ようとしていて、
ものすごく怖かった。

(8)家族で美川村スキー場へ行った。
帰り、山から下りる時は私が運転した。
チェーンは付けていたが、
道は狭く、未舗装である。
下りはかなり急でエンジンブレーキを
かけてもなかなか止まらない。
ブレーキを掛けても止まらない恐怖は
運転手にしかわからない。
雪道には慣れてない。
国道に出たので、父に代わった。
父も雪道には慣れてない。
前から車が来たので、
ブレーキを踏んだらしい。
すると車が山にぶつかりそうになり、
次の瞬間谷に落ちそうになった。
家族全員の悲鳴が聞こえた。
要するに360度スピンしたのである。
道路が広いのと直線道路が幸いした。
そのあとはゆっくりと
今治へ帰ったのは言うまでもない。

(9)今治の町中の交差点での出来事である。
ガガガーというような
異様な大きな音が聞こえたので振り向いた。
その時の軽四輪の運転手の
恐怖に怯えた顔が目に入った。
バスに挟まれたのである。
左にハンドルを切っているのでその内輪差で
今にも軽四輪が
押しつぶされようとしているのである。
その軽四輪の運転手の顔は
今でも忘れられない。



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き_嫌いな言葉
(1)愛媛新聞の地方欄に
19大学卒業生ソフトボール大会の記事が載った。
この時私がインタビューされたが、
「無職」として紹介された。
私の一番嫌いな言葉である。
なぜなら私の人生は
まだまだこれからだと
思っているからである。
現在の私の仕事といえば、
ユニソン(株)、ユニソン錬成塾、
損保代理店、貸家業、
FXトレーダー、プログラマー、
調査員(市・県)、
情報誌配布、ネットオークション、年金。

一番やばいのが、
音楽著作権法に触れながらの
Tou Tuber。
だから1円も入って来ない。
それよりも、
「この3か月以内にまた、
音楽著作権法に触れたら、
このアカウントは閉鎖します」
と脅される(警告)ことである。
だから、私はアカウントを
2つ持ち使い分けている。

それに、最近は
写真コンテストの賞金を狙っている。
記者のインタビューを受けたときは、
私の打順が迫っていたし、
どこかの小さな情報誌の記者だろうと
思っていたので、
適当に年金生活だと答えてしまった。
よく考えたら、
このソフトボール大会も
35年連続して参加している。
優勝は2度あるし、雨で中止した記憶もない。
コメントだって小学生の言葉で
恥ずかしい限りである。
「生涯現役」だと思っているので、
無職とは言わせない
本音は経済的に必要。
次回は自遊業と答えておこう。
この後、
この愛媛新聞記者も立教大OBだとわかり、
急きょピンチヒッターとして
出場してもらった。



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く_悔しかったこと
(1)小学4年生の時、
算数の50問ドリルの解く速さを
N君と競争した。
標準タイムと最速タイムが表示されていた。
同じ問題を10回近く解いているので、
当然二人共最速タイムより速い。
しかし負けるはずはないのに、
どうしても勝てないので悔しくて泣いた。
後で聞くと初めの10問ほどは
答えを暗記していたとのこと。
そう言えばN君はその後、
愛光中に進み、弁護士になった。
どうりで暗記力がいいはずである。
私は答えを暗記して書くという
発想自体がなかった。

(2)中学生の時、
我が家には2畳ほどではあるが
私の実験室があった。
いつも酢酸の臭いでいっぱいであった。
学校でやった実験を家で
もう一度やってみたかった。
薬品を揃えたが、
硝酸銀(AgNO3)だけが
高価で買えなかった。

(3)中学生の時、
アルミのキャップでロケットを作った。
マッチの軸や花火の火薬で
固体燃料のロケットは飛んだが、
液体燃料のロケットがうまくいかなかった。

(4)高校の数学で、最大値の問題が出た。
しかし、私は最小値も求めると
先生も喜ぶのではないかと思い(?)
最小値も書いたら2点減点された。
98点で学年トップで
渡り廊下に張り出されたが、
やはり満点の方がかっこよかった。
98点は二人いた。残念!

(5)松山の教育センターからの帰り、
普段はネズミ捕りをやっていない区間に
差し掛かったので、
ネズミ捕りレーダーの電源を切った。
雑音が入るからだ。
そしてアマチュア無線を始めたら、
すぐにネズミ捕りに引っかかってしまった。

(6)松山の教育センターに行く途中、
2年間で一度もパトカーに会っていない
追い抜き禁止区間で、
たまたま遅い軽トラックを追い抜いた。
遥かかなた1kmぐらい先だと思ったが、
パトカーがちらりと見えた。
見えていないのではと思ったが、
やはりパトカーは見ていた。

(7)戸塚第一中時代、
中間テスト期間中は
体育のテストはないので、
体育のS(タワシ)先生に
バドミントンのシングルスをよく誘われた。
いつもラブゲームで負けた。
当時はサービス権がないと得点出来ない。
つまり連続してS(タワシ)先生には
勝てなかった。
しかし現在は違うでしょう。
今なら勝てるはず。


(8)小学6年の時、第1試合の相手は常盤小。
こちら日吉小の先発は
Ha君(大阪大学教授)であった。
私はファースト。
試合の回は中盤、
得点は1対1の同点、
1アウト、相手ランナーは2塁、3塁であった。
ここで、私がリリーフした。
私が、セットアップをすると、
2塁ランナーが動き出した。
3塁ランナーを見ると
ベースにはり付いている。
もう一度2塁ランナーを見ると
リードがかなり大きくなった。
そこで、セカンドにボールを
投げてアウトにしたのはいいが、
その間に3塁ランナーが
ホームに帰ってしまった。
その後の回で、1アウト3塁に私、
という場面があった。
どのようにして3塁まで進んだのか
記憶にないが、
多分2塁打を打った後、
3塁へ盗塁したものと思う。
とにかく足には自信がある。
バンドでもいいから
次のバッターが玉を転がしてくれさえすれば
ホームに滑り込む絶対的な自信があった。
だが残念ながら三振であった。
結局2対1で初戦敗退。
思うに、ピッチャーが、セカンドに投げた後
すぐにホームに投げる練習をしていなかった。
「2塁ランナーのリードを大きくとれば
ピッチャーが投げるだろう、
その間に3塁ランナーを帰そう」という
相手監督の作戦にまんまと
私が引っかかってしまった。
本当に悔しかった。


(9)初心者バドミントン大会
準決勝戦の時である。
ジュースになり、こちらのアドバンテージ。
相手がハイクリアーできた。
アウトになるかなと思いながら
シャトルを追いかけた。
床のラインが見えた瞬間
アウトだと分かった。
しかし、私のラケットは
打つ動作に入っていたので
止められなかったのである。
中途半端な振りになり結局負けてしまった。
練習不足。優勝を逃した。
まあ相手は年齢が半分以下の
女性チームである。
良しとしよう。



(10)日吉小学校6年の時、
200m走の学校代表に選ばれた。
(小5年の時は、100m走に出たが決勝に残れず)
今治市陸上競技大会に出た。
小学校数は12校。予選2レース、上位3人が決勝に。
予選1レース、出発のピストルを聞いて、
体を起こすとトップの野口君は既に1m近く前方にいた。
私は2位。必死に走ったが途中で武内君に抜かれ3位。
決勝に出た。
この時もスタート時は2位。
武内君に抜かれまいと懸命に走った。
1位の野口君は小学生新記録で優勝。
体格も大きく中3生ぐらいあった。
私の前1m以上引き離していた。
私は、30.4秒で2位。
3位は武内君でこの後ろは団子状態であった。
それにしても、走行時に私を抜いたのは、
小中高を通して、この武内君(現在は医師)だけだと思う。
悔しいが、彼は速い。
ちょっとでも気を抜くと負けそうであるからだ。
1位の野口君(後に美須賀中学の生徒会長)は別格。

現在私はバドミントン(週4日)をしているが、
体格の大きさは絶対的に有利である。
サーブ時でも大きな体で前で構えられると、
ショートサーブしかできないからだ。
しかし、私の予選、決勝とも、
スタート時は今治市2位であった事は、
現在でも私の密かな自慢である。


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こ_心に残っている言葉
(1)教師新採の時の家庭訪問で、
早稲田大学近くの
ラーメン屋さんのH君の親に
言われた言葉である。
「先生うちの子を怒っては困るが、
どんどん叱ってくださいよ。」

(2)幼少の夏の夜、
物凄い落雷があり停電になった。
真っ暗な闇の蚊帳の中で、
子ども3人がおびえていた。
すると父親から
「地震・雷・火事・オヤジ」の
言葉を教えてもらった。
雷より怖いことがあるのだと思った。

(3)中学3年の時、
M君と二人で町中の路地を歩いていると、
同じぐらいの子2人組みに恐喝にあった。
500円ぐらいだと思う。
当時のおこずかいは
月にLPレコード500円か、
SPレコード350円1枚買えるぐらいであった。
私は直ぐに警察へ行こうとしたが、
M君はついてこなかった。
警察に話すと婦警さんは
「M君には、協力してくれるように
言えばいいのに」と、
協力という言葉が心に残っている。
そのあと、写真を見せてくれたが、
出るわ出るわ、同じクラスの子もいた。
私のH中学の生徒はもちろん全員知っていた。
みんなこの婦警さんのお世話に
なっていたのだなあと思った。
わがH中の番長ノリは、
さすが一番目つきが鋭く写っていた。
市内の不良全員の写真を見たが、
わがH中の番長ノリが一番怖いと思った。
他の学校はみんな
普通の生徒のように見えた。
番長ノリとは3年間同じクラスだったと思う。
1年の時はおとなしい
目立たない生徒であったが、
2年の夏休みから180度変わった。
自分の学校の生徒には手を出さないが、
よくバルとかの子分を連れて町へ行っては
M中の不良と喧嘩をしていた。
一度相手を思いっきり殴りすぎて、
手の骨折をしてからは
よくテープを手に巻いていた。
修学旅行のバスでは、
番長が最初に歌って盛り上げてくれた。
舟木一夫の「修学旅行」
「高校3年生」「仲間たち」・・・
番長ノリは同じクラスの女子に好意を持ち、
双方から私が相談を受けたこともあった。


(4)小学3年ぐらいの時、
近見山へ友人5人ぐらいと登った。
帰りに売店があり、原因は覚えていないが、
そのおばちゃんに叱られたことがあった。
その時先輩が
「さあみんな、はよ消えよう」と言った。
「消える」とはこんな使い方が
あるのだと思った。


(5)戦時中、ある農家における
嫁姑問題である。
 「あんたには心の虫がおるんよ。心の虫。
わしにもおるんよ、
自分でもたまげる程の強い虫がの。
その虫がおりゃあこそ、
あの陰気な家を明るい家に
して見せたんじゃけん。
小姑の為に一日も欠かさんように
薬湯を焚いたんじゃ。
あんた、お婆から逃げてばっかりおらんと、
お婆の胸の中に飛び込んでいきんしゃい。
わきからお婆を眺めておらんと、
飛び込むことよ。
お婆の心をわかろうとしんしゃい。
お婆の心をわがものにして、
すっかり変えたろうと思うんじゃ」
 「ナツノさん、ありがとう。
わしゃ務め方が分からなかったんじゃ。
そう言えば、
お婆も若い時から苦労のしっぱなしで、
誰にも慕われずに、
死んでいくのはいやに違いない。
わしゃすっかり変えてみよう。
ナツノさん、
わしゃ明日から病院に付きっきりで、
子供のことはお頼みします」
 「ええよ」
 「お願いします」   
 映画「荷車の歌」(1959年)より



(6)中学社会の授業中、先生が、戦時中を話してくれた。
丁度汽車が鉄橋を渡っている時に、
鉄橋の下にいるとわかると言う。
その時、「ゴー」と聞こえるが、その時の音が、
爆弾が落下する時の音に近いと教えてくれた。
今治の大坪通町谷線のガードを車で通るときに何時も
戦時中の爆弾が落下する様子を想像します。
 この先生が一躍、Hで有名になったことがある。
地理の授業で、富士山のコニーデを教える時である。
立体式の地図模型を前に「富士山のコニーデは、丁度
このように、女の子のオッパイみたいに
綺麗な形をしています」と、
立体の富士山を触りながら言ってしまったのである。
真面目な先生だったからよかったものの、
もし、私がやったらクラスがどうなっていただろうか?
教師として気を付けないといけないことである。


(7)孔子は、紀元前479年、74歳で、
この世を去った。
孔子が晩年に、自分の七十余年の生涯を
回顧して言った有名な言葉。
「吾、十有五にして学に志す。
三十にして立つ。四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」
 私も72歳(2021/8/12)。
心の欲する所に従って生きていいのだ。
今まで真面目に生きてきたのでこれからは、
矩を踰えない不良老人になりたい。
まずは同級生のバンセイ(某会社の社長)の
ように顎鬚を蓄えよう。
何しろ、私の祖父(元、戦艦長門の機関長)は
立派な顎鬚を蓄えていた。



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こ_心残りなこと
(1)西伯方中の教諭をしていた頃、
夜の開山からは
美しい星空が見えることを発見した。
赤道儀付の天体望遠鏡を購入し、
ASA感度(ISO)1600のフィルムも用意した。
これから天体写真を撮って、
理科室一面に展示しようと思った。
同時にPC8001のパソコンにも興味を持った。
結局パソコンの興味の方が強くなり、
天体写真を撮ることはなかった。
しかし、これからは
撮れるのではないかと思っている。


(2)
今治南中の教諭をしていた頃、
今治市の理科部長になった。
また試験問題を分析するのに
SーP表を作成するプログラムを作成した。
このSーP表を利用すれば、
自分が作成した問題の注意係数を見れば
適切かどうかがわかる。
今治市の理科の先生たちが
自分が作成した
理科問題と注意係数と正答率を共有すれば、
よい問題作成のヒントになる。
また自分の理科授業の改善に
つながると思っている。
ここまで時間的にできなかった。

(3)今治南中の教諭をしていた頃、
校庭には様々な木があった。
そこでそれぞれの木々にナンバーを付けた。
ここまではした。
あとはこの木の名前を知っている
先生等の人に聞いて、
名前の同定をするだけであったが
できなかった。


現在では、スマホのアプリに
「Picture This」というのがある。
スマホのカメラで知りたい植物の写真を撮れば、
瞬時に名前を教えてくれるのである。
30年前には考えられなかった。
便利な世の中になったものである。


(4)私は学校の先生が使用する
プログラムを考えられるだけ、
かなりの数作成した。
300種類ぐらいだと思う。
ただしMS-DOS版である。
後半少しWindows版に移植したが、
全部を移植するには膨大な時間が必要。
ある時ソフトバンクの営業マンから
電話があった。
「これらのソフトを各県の教育センターに
納入してもいいですか?
ただ先生方が自由に使用しますので、
コピーされる可能性がありますよ」。
私のソフトはプロテクトを掛けているので
OKの返事をした。
すると、
日本の約1/3の都道府県に納入出来た。
翌年も約1/3の都道府県から注文が来た。
ただしWindows版を希望。
残念ながらWindows版対応は
まだ出来ていなかったので、
納入できなかった。
その翌年も残り1/3の都道府県から
Windows版の注文を受けた。
結局、時代の流れは
MS-DOS版からWindows版へ
移る時代であった。
私はその流れに2年ついていけなかった。
それにしても、
納入は1/3しか出来なかったが、
全国の都道府県の
教育センターから注文を取ってくれた
ソフトバンクの営業マンさんご苦労様でした。

また私のプログラムを全国の先生方に

販売してくれた、
販売会社や流通業者の方に
お礼を申し上げます。

ソフトバンクはじめ、
ソフトウェアジャパン、
フタバ図書、ソフトウィング、・・・
何と言ってもNEC、富士通が
後押ししてくれた。
ソフトウェアの数では、
圧倒的にNECに負けていた富士通は、
新機種が出る前に
私のユニソン株式会社に
パソコンを送ってきました。
この新機種でも作動するソフトウェアを
開発してくださいというわけである。

また私のソフトを使用していただいた
1万人以上の学校の先生方にも感謝します。
お役に立てたのかなあ、
気になることでもある。


(5)私は中学3年生の時、生徒会長だった為に
毎日のように放送室を出入りしていた。
その時の放送部の顧問の
先生が平野先生であった。
「今年のコーラスは男性の声が弱いので
阿部君もコーラス部
入ってくれないかなあ」と、
いつも勧誘されていた。
それで友人のO.Y.らには
呼び掛けて入ってもらった。
しかし、私は入るのをためらったのである。
なぜなら、私が一目惚れした2年生の彼女
いたからである。
結局、彼女と言葉を交わすことはなかった。
今思うと情けないと思う。
その年1964年(s39)のコーラス部は
第31回NHK合唱コンクール
全国第2位になった。

表彰式に出席する為、
寝台列車で東京へ行ったのだ。


(6)血液型と性格について。
これは信じている生徒がかなりいると思われる。
しかし、これは科学的に何の根拠もないことを
実証したかった。
教諭時代は簡単な方法で出来る。
40人の生徒を血液型で分ければいいだけである。
果たしてO型の生徒は
同じような性格をしているかどうか。
一目瞭然にわかると思う。



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こ_困った事
(1)戸塚第一中時代、真面目な子だったが、
前髪が目に掛かり長かったので
家で切ってくるように注意した。
その後友人を5人ほど連れて
職員室にやって来た。
これ位はほかにもいると泣き出した。
職員室にいる女の子を見ると
確かに普通にいた。
横にいた学年主任のT先生に後で言われた
「生徒は身なりではなく、
行動で指導したほうがいい」。
ここに至ってここは東京の新宿であり、
明らかに愛媛の教育は
通用しないと分かった。

(2)私はMS-DOS版の
ソフトウェアをかなりの数
作成した。
プロテクトも掛けた。
最初は私のソフトをコピーして使用すると、
そのフロッピーディスクが
壊れて使用できないようにした。
ところが製品テストで、
パスワード等を間違うと本当に
フロッピーディスクが壊れて困った。
そこで壊すのではなく
「コピーはいけません」と
表示のみで使用できなくした。


(3)戸一中のMu先生は夏休みの前に一度
「夏休みの生活」についての
プリントを配っていた。
生活指導主任とのことであった。
生徒の問題は全て担任が対応していたから、
私は生活指導主任は楽だなあと思っていた。

ところが
今治南中の生活指導主任は大変である。
例えば朝礼があるときは、
全校生徒のカバンの中から、
雑誌等余計なものがあれば全部取り上げ、
担任の机上に置いていくのだ。
ある時、私の机上にも雑誌が置いてあった。
おとなしいが気の強い、
ある委員のAさんのものであった。
この後、Aさんは教師不信に陥ったのか、
私の指導にも素直に聞かなくなり、
困ってしまった。
私は、生徒のカバンを無断で
開けたことはないが、
生活指導主任ともなると、
そんな権力も持てるのかもしれない。
また、例えば夜帰りが遅い生徒がいると、
学年の先生全員に呼び出しをかけるので、
家で晩酌もゆっくりできないのだ。
一度酒をちょこに注いだ時に、
学校から電話があったから行けたが、
あと1分でも遅かったら、
タクシーで学校へ
駆けつけなけばならなかった。


(4)小学1年の時、
大学を出たばかりの若いW先生が
ほとほと困ったことがあった。
Y君である。
先生の後ろからいきなり
スカートをめくるのだ。
よく先生の悲鳴が聞こえた。
こんなY君だが、
タップダンスが非常に上手であった。



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こ_怖かったこと
(1)「先生、質問!」と、
生徒に言われたらどうしよう。
新採のころ一番怖かった声である。
私の理科教諭としての
新任は9月1日であった。
前任者は教頭として転任していった
ベテランの理科教諭であった。
転任先の教頭が病死したとのことでした。
「阿部先生、明日から3年生の理科は
力の単元からお願いします。
これが教科書で、これが教師用指導書です」
わたしは、
教師用指導書を見ながらの授業だけは
しないようにしようと思った。
また私の受けた理科の授業は中学も高校も
ただ、ひたすら先生が板書したことを
ノートに写すだけの単純な授業であった。
こんな授業だけはするまいと思っていた。
とにかく初めの3年間は大変だった。
これほど必死に
勉強したのも初めてであった。
生徒に見透かされないためである。
受験勉強をこれほど
やっていたらとも思った。
何しろ自然科学の分野については
クラスに2~3人は好きで、
かなり詳しいい生徒がいるものである。
生徒の質問に、
私がうまく答えられないのに、
あっさりと答える生徒がいても
不思議でも何でもない。
これを私は非常に恐れたのである。
しかし3年間で一通り教えると
生徒にとって理解しずらい単元等が、
全て分かってしまった。
すると、どんな質問にも
答えられる自信がついた。
一つの質問で授業もできるようになった。
生徒の質問を聞くと、
当然その生徒がどれほど勉強を
してきたかが一発でわかる。
と同時に教師がちゃんと教えてきたか
どうかもわかるし、
そして今後何をどう教えていかないと、
いけないのかもわかる。

自分が学習するのと、
教えるのとでは全く違う。
特に理科や社会の応用教科を
教える先生は大変であると思う。
国語や英語は教科書を読む
ことが重要であるので、
かなりな時間読みに使われる。
数学は計算練習にある程度
時間をかけなくてはならない。
つまり、英語・数学・国語の
基礎教科の先生は比較的楽だと思う。
理科は例えば、「密度」について言えば、
塾の先生は、密度の問題を解くのは
問題文の中から、
その物質の質量と体積を
読み取る方法を教えればいい。
あとは公式に当てはめればいいだけである。
ですから比較的楽である。
しかし学校の教師は、
なぜ密度を学習する必要があるのか、
密度という概念がなぜ必要なのか。
例えば、密度という道具を獲得しないと、
解決できない状況に
生徒をどのようにして追い込んでいくのか。
物質は質量と体積を持つが、
どれほど持つのかは
物質によって全部異なっているのだ。
つまり、単位体積当たりの重さを調べると
みんな違うのである。
密度は融点や沸点と同じく
物質の個性である。
つまり、密度を調べれば
物質名がわかるのである。
このことをどのような順序で教えるのか、
密度の前に何を教えないといけないのか、
そして授業でどのようにして
教えたらいいのか、
といった事が大変であるし難しいのである。
つまり、教材研究が大変なのである。
だから、理科や社会の
応用教科の先生は大変だと思う。
私の受けた理科の授業は、
「密度=重さ÷体積」
と板書したものを
ただひたすら写すだけだった。
これだと、
理科はたんなる暗記科目になってしまう。
しかし教える側からすると、
この方法が一番楽である。
私の理科の授業は
「仮説実験授業」や
松井先生の授業が基本になっている。



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し_失敗したこと
(1)友人と3人でカラオケ店に入った時。
カラオケは一人5,000円だと思った。
しかし請求された金額は3人で
48,000円であった。
翌日、ぼったくりではないかと
警察に届けるつもりで店に寄った。
最初の1時間が5000円であった。
そして、延長30分2000円(飲み放題)
ということらしい。
そう言えば朝の2時過ぎまで6時間半ぐらい
カラオケをしたようだ。
よく確認していなかった、反省!!

(2)基隆と香港の間を週一度航海する台湾丸
という客船がある。
イギリスの一万トンの客船である。
当時往復1万円程度。
香港からの帰り切符は購入していたので、
乗れると思って行くと、ダメであった。
イギリスの船は全てベッドなので
指定席で予約がいるのである。


(3)高校生の時に
今治港へスクーター
で行った。
途中道路の真ん中に
直径15cm位の穴が空いていた。
その穴を避けられずガタンと衝撃を受けた。
様子がおかしいので
港に止めて座席をめくってみた。
すると青白い、炎が見えた。
急いで周りの人に消火器を探してもらったが
見当たらなかった。
そのうちにスクーター全体に火が移り、
爆発を恐れて
ただ見守るだけになってしまった。
今なら市の道路課に訴えるだろう。
それにしてもあの漏れたエンジンオイルに
引火した炎は、
限りなく透明に近いブルーで、
あまりにも美しかった。

(4)夜、街灯のない暗いコーナーを
バイクでギリギリに右に曲がった。
気が付くと道路の真ん中で倒れていた。
後ろから車が来ていたら、
それで終わっていた。
内輪差で後ろのタイヤが
歩道にぶつかったのだ。
4輪車では何でもないが、
2輪では命取りになることがある。
角は大きく回らねばならない。


(5)ある友人の結婚式の写真を任されたが、
全て失敗した。
これはフラッシュ撮影に
慣れていなかったので、
上手くシャッターとフラッシュが
同調しなかったのである。
ですから半面しか写らなかった。
申し訳なかった。
昔のアナログなので、
現像してみないと分からなかった。
現在のようにデジタルなら、その場でわかる。
カメラの進化は目覚ましい限りである。



(6)住宅を購入する時に気を付ける事。
住宅の敷地の間口は2m以上必要である。
なぜなら、建物を立て直す時に問題となるからである。



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し_趣 味
(1)人間観察。人の心を見続けること。
人は非日常の時に、本性を現す。例えば

保険の事故が起こった時。
保険の代理店を25年ほどしていると、
保険金詐欺にも何件か会った。
通院日数あたりから見えてくる。
また代理店は騙せても
保険会社はなかなか騙せないと思う。
疑いがあると、
保険会社は外部の調査機関に頼むのだ。
そして、事故報告書に一か所でも
重要な嘘があると判断されると
1円たりとも保険金は支給されません。
例えば、自分の怪我を
自動車事故のせいにしようとしても、
事故証明がないと保険会社は認めません。
また、自分の飲酒運転をごまかす為に、
車に当たったのに、
ブロック塀に当たったと主張しても、
保険会社は車の傷を見ればすぐにわかります。
人身事故を起こした時、罰金を恐れて、
相手は怪我をしていないと主張すると、
保険会社はそれを盾にとって、
怪我をしていないのであれば
治療費は払いませんと出る可能性がある。
怪我をしてるかどうかは、
主観ではなく診断書があるかないかでわかる。
普通の人だと思われていたのに、
事故を起こして初めて、
その道の組の人だと分かった場合もあった。
保険金をめぐって、当然嘘をつく人もおり、
初めてその人の本性が現れるのである。
つまり、事故が起きなければ
全く分からないことが、
事故が起きて
初めて見えてくる事があるのである。

調査の対象に決まった時。
「この度、お宅様に調査を
お願いすることになりました」
1~2割の方が「何で私に!」

情報誌を配布したとき。
時に「私は、忙しくて見ないから
入れないでくれる!」
という人がいる。これがお店の店主である。
町の情報誌を見なくては、
時代の流れが読み取れないと思う。
どんなお店が流行っているのかという情報
に興味のないお店は
この先、生き残れないと私は思う。

塾の月謝を払うとき。
以前新聞代のお金を
投げ捨てるように支払う人が
いると聞いたことがある。

ですから、私は新聞代の集金人には
「1か月間ご苦労様でした。」と
言って支払うようにしている。

(2)中学時代、
ハトを飼うのが趣味であったし、
友人もみんなハトを飼っていた。
最初2羽から7羽まで増やした。
ハト小屋は自分が作った。
クリ、ゴマ、サシ、シロと
色々種類を飼っていたが、
掛け合わせでどんなハトが誕生するのか
いつも楽しみであった。
トウモロコシを餌に与えていたが、
幼い時は胸を触ると
トウモロコシの感触を感じて気持ちよかった。
日吉中の裏でよく塩土を買った。
水を与える入れ物が
うまく出来ているので感心した。
ある時片足が不自由なサシのハトを
H君(大阪大学教授)から500円で買った。
普通は私のハト小屋で生まれた
ハトしか戻らないが、
このハトは口笛を吹くと
私の手に戻るのでよくかわいがった。


(3)小学校の時、天体望遠鏡が欲しかった。
買えそうもないので、
自分で天体望遠鏡を作った。
メガネ屋さんで安いレンズを買った。
最初、鏡筒は家にある父が
仕事で余った竹を使った。
そのうちに塩ビ管を購入。
接眼レンズも焦点距離を測定して、
ハイゲンス式やラムスデン式接眼鏡を作った。

木星の4大衛星を見たときは、
予想していたより
あまりにも小さかったが感激した。



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し_衝 撃
(1)小学5年のとき、
一緒にK君と登校していた。
道端の石を見つけて
「この石は、花崗岩だね」と言った。
石に種類や名前があるとは
夢にも思わなかった。

(2)いつものメンバーで麻雀をしていた。
するとT先生(社会)とN先生(国語)の
議論が始まった。
しかし何を話しているのか
さっぱり理解出来なかった。
日本語であることは確かにわかった。
よく聞くと
「ベルクソン」(ノーベル文学賞)だけは
読み取れた。
一つ一つの言葉が難解であった。
理科と数学の先生が
どんなテーマで話し合えば
文系の先生が
理解できない話し合いになるのかと、
考えることがたまにある。

(3)中学1年生の授業。
(問題)Aのボンベには空気、
Bのボンベは真空、
Cのボンベには水素を入れています。
重い順に並べなさい。

空気中で水素の風船が浮かぶから、
水素は空気より軽い。
そこで、空気と真空について。
水中で人間は浮かぶ。
しかし空気中で人間は沈む。
だから水の方が空気より重い。
次に真空中で人間は浮かぶ。
しかし空気中で人間は沈む。
だから真空の方が空気より重い。
だから、重さの順に並べると
B:真空、A:空気、C:水素の順になるね。

正しいと思う人は手を挙げなさい。
すると全員の手が挙がった。衝撃であった。
これはどんな物質にも、
必ず重さと体積を持っているという事が、
はっきりと理解出来ておれば、
簡単にわかる問題である。
正解は、
A:空気、C:水素、B:真空、の順である。

(4)高校の時は物理部に入っていた。
獅子座流星群を10人ほどの部員で
観測をしていたら、
誰かの大きな声がした。
西の空から
10機ほどの編隊を組んだUFOが
音もなくスーと現れたのだ。
まもなく野球部のライトの中に
消えてしまった。
可能性として渡り鳥が考えられるが、
羽を羽ばたく動きは全くなかった。
生き物ではなく、金属の冷たい感じであった。
それに夜に渡るのだろうか。
日本野鳥の会の先生に聞くと、
夜も渡るそうである。残念!
しかし部員みんなUFOだと信じている。
(参考)渡り鳥が渡り先で採取する餌から
獲得できるエネルギーが、
渡り先への往復の移動で
消費するエネルギーや、
渡りをせずに得られるエネルギーを
上回ることが明らかにされた。
なぜ温暖な地域にだけとどまっていないのか。
その理由は他種との間で餌をめぐる争いが
過剰に発生するからだという。
鳥は温暖な地域にとどまらずに、
寒冷な北半球の生息地に戻る。
そこでは、
餌をめぐって他種と争う必要がない。
米科学誌
「Nature Ecology and Evolution」より


(5)川島なお美さんが
今治の港祭に来た時がある。
平成11年10月11日。
色紙が5枚あるが、
父の名前「かずお」と同じ人に
あげますという事で、私が選ばれた。
その時握手もしてくれたが、
その感触が衝撃的であった。
白くて唐津のようにつるっとしていた。
女優さんの手というのはこうなんだ、
と感激した。(胆管がん、享年54)


(6)テレビ映画の『激突!』(1972年)
を見たとき。
とにかく画面から一時も目を離せなかった。
トイレに行きたくとも
行く時間が取れなかった。
制作費用は大して掛かってないと思う。
大きなトレーラーと中古の車ぐらい。
あとから、監督が
スピルバーグであることを知った。


(7)大学の時、タバコの中にニコチンが
どれぐらい含まれているのか実験した。
ニコチンをニコチン酸アミドにして抽出、
その量を測定するのである。
まずタバコの吸い殻を学園から
集めて一晩水に溶かした。
翌朝その色を見て驚いた。真っ黒である。
タバコをする人の肺の中もこんなに真っ黒に
なっているのかもしれないと思うと、
早くタバコから
卒業しなくてはならないと思った。


(8)交差点で人身事故を起こした
加害者のお客様がいた。
被害者は救急車で運ばれ、全身を強く打ち、
痺れが残っているという。
私は、
「これは被害者は診断書を警察に提出し、
人身事故として扱われるでしょう」
という事を、加害者に話しておいた。
1週間ぐらいしてやはり被害者は
人身事故扱いにしたことが分かった。
しばらくして、
加害者から信じられない電話が入った。
「被害者に連絡して人身事故扱いを
取り下げるように
してもらえないだろうか」という事であった。
「なぜなら、被害者は
怪我なんかしていないじゃないか」
という事を言う。
私は、「救急車で運ばれ
現に通院をしていますよ」
「体の痺れもあり、むち打ち症と
同じように長引く可能性もあります。
人身事故扱にしておくほうが安心ですよ」
普通の人はここで納得がいきます。
しかし、全く聞き入れないのである。
[とにかく、怪我はしていません。
人身事故を取り下げてください。
他の代理店はやってくれますよ]
みたいなことを平気で言う。

ちなみに「人身事故の取り下げ」等は、
当事者か弁護士以外の人は出来ません。
非弁行為となり罰せられます。
弁護士法、第77条
(2年以下の懲役、又は300万円以下の罰金)

私も25年ほど代理店をしているが、
こんなお客様は初めてである。
私は直感で、
誰かに入れ知恵をもらったと思った。
「人身事故にすると罰金20万円来るよ。
だから代理店の人に
人身事故扱いを
取り下げてもらったらいい」と。
確かに私も過去に人身事故にしないように
頼んだこともあるが、
その時は、
ハンドルで胸を少し打っただけとか、
自転車で
足を少し擦りむいた程度の怪我である。
救急車で運ばれたケースはない。
この被害者は結局は
治療に1年あまりかかり、
自賠責保険の120万円以内では
治療費は納まらなかった。
150万円余りかかった。
1年以上通院を続けた人は
最後は後遺症の認定を受ける人が多いが、
この人は認定を受ず、
通院日数を見ても普通の真面目な人であった。

もし被害者に
「人身事故扱いを取り下げてもらえないか」
と相談を持ち掛けたら、
逆上する人が結構多いのである。
「痛くて通院しているのに、
私を何だと思っているのか」
と怒り出すのである。
こうなると、
「弁護士以外とは、話し合う気はない」
と言う人もいました。
また、通院も2~3年わざと長引かせ、
それも病院を変えて通院した人もいた。
裁判になり後遺症として、
2900万円請求した人もいたが、
こうなると、保険会社も人身事故でないなら
治療費や後遺症の費用を払う必要はない、
と出るかもわからない。
加害者も「後遺症の2900万円を
払わせられるのは、
代理店が
人身事故を取り下げたからではないか」
と言い出すかもわからない。

当然こういった問題を起こす可能性
のあるお客様は
保険会社としても、お断りしました。
今までにも、保険会社の対応に不満を抱き、
訴えようとした人や
組の人だと分かった時点でお断りしています。


(9)1冊の文庫本を買ってきた。
浪人の時である。
K.S君はこれを見て、「これぐらいの本なら
立ち読みで十分読めてしまうよ」
「エエッ!」
いつも文章を読んでいる人は
すごい読む力があるんだなあと思った。



(10)
若いころ女子医学生の友人がいました。
彼女に
『中国の旅』の本を読んで見たらと
言われたので、借りました。
『中国の旅』とは、全く根拠の無い仕込まれた内容で、
朝日新聞の本多勝一(本名が崔泰英と云う在日朝鮮人)が、
中国政府のプロパガンダの為に用意した中国人民に語らせて、
そっくりそのまま記録とした本です。

例えば、
「乳呑児を日本兵が取り上げ、母親の前で、
乳呑児を野球のボールのように投げあい、
最後は銃剣で突き刺す」
といった内容の記述がありました。

今思うと、裏付けも検証も全くない記事を
「朝日新聞」がよくも取り上げたものだと思います。
ジャーナリスト失格です。
朝日による反日キャンペーンは大成功し、
中国共産党と在日朝鮮人による捏造によって、
戦後の日本は自虐史観が広まったのである。

(11)若いころ女子医学生の友人がいました。
当時、彼女が
「NHK受信料は支払わない」
いうのを聞いた時は、
私にとって衝撃的なことであった。

勝手に電波を出して、
NHKを見ない人からも受信料を取るのは、
確かにおかしい。
NHKだけを見えなくすることは、
デジタルなので、実に簡単に出来るのにあえてしない。

私の友人に建設会社の社長がいるが
「暴力団が勝手にこけし人形を事務所に置いて行き、
後から"みかじめ料"を要求されて困っている」と
聞いたことがあるが、これと同じ。

また、安倍政権打倒の反日報道しかしない。
例えば、加計学園問題の時は、
NHKは加戸前愛媛県知事の主張は一切放送しないで、
前川喜平の主張のみを放送して、
安倍首相が利益供与を受けたのではないか
と毎日のように放送していた。
また玉木雄一郎が52年間獣医師会の既得権益を
守る放送しかしなかった。

 時系列的に見れば実に簡単明瞭。
1975年(S50)今治学園都市構想。
2007年(H19)手を挙げてくれたのは加計学園のみ。
2007年から15回申請。
もし,お友達内閣であれば
第1次安倍内閣の2007年に選ばれていた。

NHKクローズアップ現代で
「天安門事件での大きな虐殺はなかった」
日本人から受信料を取って,中共のプロパガンダを放送。
NHK役員は266万円/月(H24)。
これは総理大臣の1.7倍。これも衝撃的であった。
髙橋洋一氏は「Eテレを分割し公共放送として税金を使用すれば
受信料は月200~300円で十分」と言っている。


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し_ショック
(1)「この2cmほどのポリープは
大腸ガンの可能性があります。
精密検査に出しておきます」。

(2)朝起きた時、
足に力が入らなく立てなかった時。
体育館を走っていて、いきなり転んだ時。
周りの人は何かに
つまずいたのでしょうというが、
そんなことはなく
左足が上がらなかったのである。
原因は血管が詰まっていて
血液の流れが悪かったのである。
これはある日3500歩ほど歩いた時、
お尻が急に熱くなったので、わかった。

(3)ソフトボール大会で、
セカンドを守っていた。
ゴロが来たので急いでファーストに投げた。
するとなぜかわからないが倒れたのである。
両手を地面につけているはずなのに、
右手が見えなかった。
この時、今までで一番の衝撃的な状況に
なっていると思った。
これは大変だと直感した。
右手は肩の後ろにあった。
後ろにある手を前に持ってくるときに
電撃的に痛みが走った。
腕の骨が神経に触ったのだろう。
急いで救急車を呼んでもらった(2004/11/3,H16)。


(4)小学6年のとき、
09エンジンのUコン機を作った。
色はいろいろ悩んだあげく若草色を塗った。
日吉小学校のグランド。
一番最初の処女飛行は、
自信がないので、中学生の先輩に頼んだ。
始めは調子よく飛んでいたが、
宙返りが失敗、グランドに激突した!


(5)高校時代、化学の授業が終わってから、
準備室に質問に行った。
「原子のデータが
教科書と資料集とで異なるのですが
どちらが正しいのですか?」
すると、なぜかしかられた。
私なら、半径か直径かだと思うのだけど、
理科年表を調べれば簡単にわかると思った。
これ以降質問に行くことはなかった。

(6)西伯方中時代、
土曜日の午後5時間余りかけて
プログラムを組んでいたのに、
予告なしの停電に会った。
全てのプログラムが
消えてしまった時は呆然とした。
これが島の生活だとも思った。
当時、1クラス30人足らずの5教科の得点を
保存するのに、現在なら1~2秒。
当時のPC8001ではカセットテープしかなく,
30分余りかかった。

だから、
データはDATA文で書くしかなかった。


(7)私の友人が紹介してくれた
幼稚園の先生と大島一周の
ドライブをしました。
帰りのフェリーの中で実は
今日のデートの為に
お弁当を作って来たとのことでした。
ショックでした。
途中二人で遠くの島を見ながら
お弁当を食べるのにいい場所が
いくらでもあったのに。
結局前の車のバンパーを見ながら食べました。
デートの初心者でした。


(8)ヨーロッパ32日間一人旅の時。
汽車の中で、ユーゴスラビアから来た青年に会った。
どこから来たのかと聞くので、
JAPAN と答えたが、そんな国は知らないと言う。
その時、その部屋にいる人は、
みんな日本を知っていて、助かった。
ヨーロッパの汽車は部屋に分かれている。



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す_好きなもの・言葉
(1)風の音。夏の訪れを知らせる、
ガサガサという庭の木を揺らす音。

(2)夏の縁日で売っているガラスの風鈴の音

(3)冬の夜、「石焼き芋」の声。

(4)アミエルの日記より
心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、人生が変わる。

(5)4つのサイクル
<1>誕生~20歳前後
(親の保護・勉強・第一の人生への助走)
<2>20歳前後~40歳代頃迄
(第一人生の始まり・自立・奉仕・蓄積)
<3>40歳代~60歳代
(奉仕・蓄積・第二の人生への助走)
<4>60~80~100歳頃迄
(第二の人生・自分の楽しみ)

(6)「喜びは人に話すことにより
2倍になり、
悩みは人に話すことにより半分になる」


(7)「喜怒哀楽」の数が
人生を美しく磨き上げるのです!(金美齢)


(8)「仕事は楽しく、遊びは一生懸命に」
(夏木陽介)
「青春とはなんだ」65~66
(腎細胞がん、享年81、H30/1/14)


(9)「問題は何者として
生まれたかではなく、
与えられた時間をどう生きるかである」
死を迎える時は決まっている。
「人生は心の平安、命の完成を目指す旅」
(ロバート・パラディーノ)
出来る限りシンプルに生きよう。
人生は如何に単純で幸せかに驚くであろう。


(10)80歳以上の老人にたいして
「人生で最も後悔していること」は何ですか?
70%の方が全く同じ回答をしています。
それは「チャレンジしなかったこと」です。

人が人生を終える時に後悔する20項目
1:他人がどう思うか気にしない。
自分がどんな人生を生きたいかです。

2:命が有るだけで幸せ。
食べるものがあって幸せ。
着るものがあって幸せ。
住む場所があって幸せ。
家族がいるだけで幸せ。
目が見えるだけで幸せ。だと思いませんか。

3:もっと他人の為に尽くせば良かった。
まず自分が他人の為に尽くす事で、
自分が求めているものはかえってきます。

4:くよくよと悩まなければよかった。
時間は命です。
くよくよと悩むのは、
自分の命をゴミ箱に
投げ捨てているのと同じです。

5:家族ともっと時間を過ごせばよかった。
亡くなってからでは、親孝行はできません。

6:もっと人にやさしい言葉を
かけていればよかった。

7:あんなに不安を抱えながら
生きるべきではなかった。

8:もっと時間があれば・・・

9:もっと思い切って冒険すればよかった。
ひとはやったことではなく、
やらなかった事に対して後悔をします。
世の中の9割が
「こんなはずの人生じゃなかった」と言って
死んでいきます。
であれば「こんなはずの人生だった」
と言って、
笑って天国に行って欲しいと思います。
人生はたったの一度きりです。

10:自分を大切にすればよかった。

11:他人の言うことよりも
自分の直感を信じればよかった。
他人の采配で人生の選択を決めるほど
虚しいものはありません。

12:もっと旅をすればよかった。
海外に行けば、
自分は日本に生まれて
良かったと思えるでしょう。
これは、日本を出なければ
わからないと思います。

13:もっとたくさん恋愛をすればよかった。

14:もっと一瞬一秒を大事に
過ごせばよかった。
80歳で死ぬとしたら、
たったの「29200日」です。

15:子供たちに
好きなことをさせてやればよかった。

16:言い争いなどしなければよかった。

17:もっと自分の情熱に従うべきだった。
あなたが生まれてきたこと自体が
「奇跡」です。

18:もっと自分の為に頑張ればよかった。

19:もっと自分の本音を言うべきだった。
この世に必ずあなたの事を
深く理解してくれる人はいます。
ですが、それはあなたが
「全てのあなた」をさらけ出さない限り
見つかることはありません。

20:もっと目標を達成すればよかった。

人生、後悔だけはしないでください。
あなたの人生はまだまだこれからです。
”今が”あなたの人生で一番若い時です。


(11)一、人を軽く見ない
一、人に恩をきせない
一、人を利用しない
一、人をあてにしない
一、人を責めない 
わたしにならせてください(金光教)


(12)スポーツは人格をつくる。
勇気と誠実さとリーダーシップを養成する。
だが何よりも増して、
揺るぎない忠誠心と連帯感と責任感を育てる。
(映画:炎のランナーより)


(13)「人生は喜ばせごっこ」
やなせたかし・アンパンマン

(14)「恋は一人でできるもの」
「愛とは二人で創るもの」
谷村新司「遠くで汽笛を聞きながら」

(15)【人生とは・・・】
1.働いた金は国にとられ、
1.残った金は嫁にとられ、
1.休み時間は子にとられ、
1.自分が取れるのは年くらい・・・


(16)人生というのは、満ち足りること少なく
ほとんどが退屈でしばしば残酷で
だけど、たまには美しい
スティーブン・キング「不眠症」より

(17)受身
柔道の基本は受身
受身とは転ぶ練習
負ける練習
人の前で恥をさらす練習
相田みつを

(18)佐賀のがばいばあちゃん(島田洋七)
1、嫌われているという事は、
目立っているという事や。
2、葬式は悲しむな。
丁度良かった、潮時だった。
3、生きている事が面白い。
なりふり構うより、工夫してみろ。
4、人に気ずかれないのが本当のやさしさ、
本当の親切。
5、ケチは最低!節約は天才!
6、「暑い」「寒い」と、うるさく言うな。
夏は冬に感謝し、冬は夏に感謝しんしゃい。
7、世の中には、
病気で死にたくない人がいっぱいおるのに、
自殺なんて贅沢だ。
8,今のうちに貧乏しておけ!
金持ちになったら、旅行へいったり、
寿司食ったり、着物を仕立てたり、忙しか。
9,二股の大根も、切って煮込めば一緒。
曲がったキュウリも、
きざんで塩でもんだら同じこと。
10、貧乏には二通りある。
暗い貧乏と明るい貧乏。
うちは明るい貧乏だからよか。
それも、最近貧乏になったのとちがうから、
心配せんでもよか。
自信を持ちなさい。
うちは、先祖代々貧乏だから。
11、拾うものあっても、
捨てるものはないと。
12、もし泥棒に入られても、何も取られるものはない。
あんまり何もないから、
置いて行ってくれるかもわからんばい。
13、人間は死ぬまで夢をもて!
その夢が叶わなくても、しょせん夢だから。
14、頭がいい人も、頭が悪い人も、
金持ちも、貧乏も、
50年たてば、みーんな50歳になる。

(19)ドラゴン桜(第5話)より
阿部寛「
原健太(発達障害)を
なぜ入学させたのですか?

校長「定員割れしたから、
誰でもいいとでも思ってんですか?」
阿部寛
「違うんですか?」

校長「ばかにされたものね。
いいですか、
世の中には色々な人がいる。
生徒達にはこの先社会に出て、
そういう人たちと手を取り合って
生きていかなくてはならない。
多様性を尊重し、互いに協力していく事を
生徒達に学んで欲しい。
だから発達障害の子も、
入学を希望すれば、普通学級で受け入れてきた


阿部寛「せこい考えしか
浮かばないと思ったアンタの頭にも、
ご立派な考えが浮かぶんですね。
健太の才能を伸ばしたのは、勉強を強制されない、
あんたの自由な校風があったからだ。
勉強に対する抵抗感や嫌悪感がほとんどなんだ。
だからいざ勉強を始めた時、
物凄い勢いで知識を吸収できた。
生徒は自由にのびのびと個性を伸ばすべきだ。
勉強ってのは、強制的にやらされたからって、
伸びるもんじゃない。
だからって、
野放しに自由にさせればいいってもんでもない。
人間には上を目指したいっていう本能がある。
覚悟を決めたら、生徒は自ら殻を破り能力を開花する。
教師の役目は奴らの中に眠っている好奇心を
刺激してやる事である。
違いますか?


(20)マスカレード・ホテルから
「ここに来る人は誰でも仮面を被っていて、
決して素顔を見せることはない。
そして、ホテルマン達は、
決してその内側を覗こうとはしない。
そうやってお客様たちは一時の自由を手にする」
総支配人
「ただ我々は、お客様に対して、
ホテルのサービスを提供する。
それだけです。」

(21)テレビドラマ

1.「東京ラブストーリー」の
織田裕二と鈴木保奈美
2.「ビバリーヒルズ高校白書」の
ブランドン、ブレンダ、ケリーとディラン
3.「路」(台湾エクスプレス)
4.「ドラゴン桜」の阿部寛と長澤まさみ

(22)テレビ番組

1.「探偵!ナイトスクープ
2.「そこまで言って委員会
3.「ポツンと一軒家」
4.「朝まで生テレビ」
5.「YOUは何しに日本へ」
6.「アンビリバボー」
7.「手品」
8.「こんなところに日本人」
9.「日本行きたい人応援団」

10.CS340_ディスカバリー
「名車再生」
「宇宙の謎を解く」
「宇宙の解体新書」
「大惨事の瞬間」
「目に見えない世界」
「世界歴史建築ミステリー」


11.CS342_ヒストリーチャンネル
「古代の宇宙人」
「怪事件ファイル」
「世界の怪奇現象」
「超常現象の世界」
「科学の眼でみる壮大な歴史」


12.CS343_ナショジオ
「航空機事故の真実と真相」
「廃車復活」
「第一次世界大戦」
「第二次世界大戦」
「海の底まる見え検証」

13.BS255_日本映画専門
「難波金融伝」の竹内力」

14.BBC放送のHARDtalk
BBC放送のテーマミュージック

(23)昔のテレビ番組
1.島田紳助の「行列のできる法律相談所」
2.ロンドンブーツのお持ち帰りシリーズ
3.月光仮面(1958年(S33)~1959年)
4.少年探偵団
5.名犬ラッシー
6.サンセット77(1960年(S34)~1963)


(24)映画

1.
シェーン」のアラン・ラッド
1953年のアメリカ合衆国の西部劇映画。
ジャック・シェーファーの小説の映画版。
(参考)「ペイルライダー」クリントイーストウッド(1985年)
は.「シェーン」と「荒野のストレンジャー」クリントイーストウッド(1973年)
を合わせたような作品


2.
カサブランカ」のハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマン
(備考1)ハンフリー・ボガードについて
1942年 カサブランカ(役名:リック)ではハードボイルド
1944年 アカデミー主演男優賞ノミネート:『カサブランカ』
1948年 黄金(役名:ダブス)では悪役
1999年にAFIが発表した「映画スターベスト100」では
男優の1位に輝いている。
(備考2)「カサブランカ」の日本版は

夜霧よ今夜も有難う」である。1967年(昭和42)
主演は石原裕次郎と浅丘ルリ子である。
3.
太陽がいっぱい」のアランドロン、マリー・ラフォレ
4.ブーベの恋人」のクラウディア・カルディナーレ
5.「キューポラのある街」の吉永小百合
6.第3の男」のオーソン・ウェルズ
7.風と共に去りぬ」のビビアン・リー
8.「燃えよドラゴン」のブルース・リー
9.バックトゥザフューチャー」(1985)
10.「ベンハー」のチャールトン・ヘストン(1959)

11.「激突」のスピルバーグ監督
「激突」1971年(日本1973)
とにかく、一瞬たりとも画面から目を離せられなかった。
2階で見ていたが、トイレに行きたかったのに
1階にある為行けなかった。
CMに変わった瞬間、階段を急いで駆け下りた。
運転中に追い抜いたトレーラーから
執拗に追跡されるセールスマンの恐怖を描いたテレビ映画。
製作費は余りかかってないと思う。
こんな映画は初体験。後でスピルバーグ監督だとわかった。
スピルバーグ監督の映画は全て好きである。

12.
ジョーズ(1975年)
13.未知との遭遇(1977年)
14.レイダース(1981年)
15.インディ・ジョーンズ(1984年)
16.シンドラーのリスト(1993年)
17.「ジュラシックパーク」(1993年)

18.「卒業」のダスティンホフマンとキャサリンロス
浪人時代に見た。
ダスティンホフマンが最初のデートで連れて行った店で、
ヌードダンサーをバックしたキャサリンロスの目から
涙が落ちるシーンが一番感動した。

19.
「トップガン」のトムクルーズ
20.「慕情」
21.「ドクトルジバゴ」オマー・シャリフとジュリー・クリスティ(1965年)
22.「ブーベの恋人」のクラウディア・カルディナーレ
23.「ひまわり」のソフィアローレン
24.「James Bond 007」のショーン・コネリー
25.「ドクターモローの島」

26.「男はつらいよ」の渥美清
27.「緋牡丹博徒」の高倉健
28.赤胴鈴之助
29.鞍馬天狗
30.世界の中心で愛を叫ぶ」の長澤まさみ

31.「学校Ⅲ」の大竹しのぶと小林稔侍
山田洋次監督
Ⅰ:(1993年作)夜間中学に通う荻原聖人と
田中邦衛とリュウ先生(西田敏行)とのあいだで
繰り広げられる人生への問いかけ。
Ⅱ: (1996年作)2人の養護学校の生徒が
念願の安室奈美恵のライブ、
さらには熱気球で空を散歩することでの心の解放。
Ⅲ:(1998年作)リストラで職場を奪われ
職業訓練校に集う人々のそれぞれの人生と触れ合い。


32.
「学校IV」の<浪人の詩
Ⅳ:(2000年作)不登校の東京の高校生が
八丈島の縄文杉に向かう道中で出会う人々との
触れ合いにより心の中の一つ一つのピースが満たされていく。

山田洋次監督

草原のど真ん中の一本道を あてもなく浪人が歩いている
ほとんどの奴が馬に乗っても 浪人は歩いて草原を突っ切る
早く着くことなんか目的じゃないんだ
雲より遅くてじゅうぶんさ
この星が浪人にくれるものを見落としたくないんだ
葉っぱに残る朝露 流れる雲
小鳥の小さなつぶやきを聞きのがしたくない
だから浪人は立ち止まる
そしてまた歩きはじめる


33.「イミテーション・ゲーム
ドイツ軍が誇った世界最強の暗号<エニグマ>
に挑んだ一人の天才数学者

34.「むこうぶち」
高レート裏マージャン列伝
には最強の雀士・傀(カイ)が登場します。
人間の顔をした鬼と呼ばれているのであるが、
実にかっこいいのである。

35.ジャニー・ギター(大砂塵)

36.プライベート・ライアン
https://eigaba.com/saving-private-ryan/
見終わった後、監督の名前が目に入った。
"スピルバーグ",やっぱり!

37.『息子』1991年。監督は山田洋次

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(25)好きな音楽・歌

1.YouTubeにUPする時に使用したサウンドトラック
ユニソン錬成塾の中の「音楽1/2」
2.「音楽1
3.「音楽2
4. 夢みる想い 1964(ジリオラ・チンクエッティ)
5.「ほほにかかる涙(ボビー・ソロ)
6.アル・ディ・ラ~恋愛専科~(コニー・フランシス)
7. Love Me Tender(Elvis Presley)
8.ダイヤモンド・ヘッド~パイプライン(ベンチャーズ)
9.STAND BY ME.(John Lennon)
10.アイドルを探せ(シルヴィ・ヴァルタン 1963)

11.She Loves You(BEATLES 1963)
12.Dancing Queen(ABBA)
13.天使のささやき(ザ・スリー・ディグリーズ1976)
14.I'm In the Mood for Dancing(The Nolans)
15.恋はみずいろ(ヴイッキー)
16.My Way(Frank Sinatra)
17.「卒業」The Sound of Silence
18.「第3の男」アントンカラスのチター
19.「風と共に去りぬ
20.「シェーン

21.「慕情」
22.「太陽がいっぱい
23.「ドクトルジバゴ」ララのテーマ(1965年)
24.「ブーベの恋人」のクラウディア・カルディナーレ
25.「ひまわり」のソフィアローレン
26.禁じられた遊び
27.エデンの東(ビクター・ヤング)
28.悲しみは星影と共に
29.The Diamonds (Little Darlin1957)
30.朝日のあたる家(アニマルズ)

31.「トップガン
32.One Thing(One Direction)
33.「刑事」死ぬほど愛して
34.La Isla Bonita(Alizee)
35.La Isla Bonita(Madonna)
36.Material Girl(Madonna)
37.好きにならずにいられない(エルヴィス・プレスリー)
38.夢は夜開く(藤圭子)
39.tsunami(前川清)

私はサザンオールスターズは嫌いであった。
とにかくあの歌い方は私にはなじめなかった。
真面目な私にとって、誤魔化しながら歌う姿勢は
受け入れられなかった。
ところが「真夏の果実」を聞いた瞬間に
私に魔法がかかってしまったようである。

40.真夏の果実(サザンオールスターズ)
41.想い出の渚(ザ・ワイルドワンズ)
42.また逢う日まで(尾崎紀世彦)
43.少年時代(井上陽水)
44.月光(鬼束ちひろ)
45.ダンシング・ヒーロー(荻野目洋子)

46.乾杯(長渕剛)
47.長崎は今日も雨だった(前川 清&クール・ファイブ)
48.SOMEDAY(佐野元春)
49.ファイト!(吉田拓郎/中島みゆき)
50.春夏秋冬(泉谷しげる)
51.マリーゴールド(あいみょん)
52.街の灯り(堺正章)
53.Take Five (Dave Brubeck)
54.明日への扉(川嶋あい)
55.大空と大地の中で(松山千春)
56.時代おくれ(河島英五)
57.grateful days(dragon ash)

58Run(Snow Patrol)
【和訳】Snow Patrol-Run
Leona Lewis - X Factor - Run
最後にもう一度だけ、君のために歌おう
Away from here
Light up,Light up
As if you have a choice
Even if you cannot hear my voice
I'll be right beside you dear
Louder louder
And we'll run for our lives
I can hardly speak I understand
Why you can't raise your voice to say

どこか遠い場所で、光り輝いていて欲しい。
それだけでいい。
別れると思うと、逆に君への思いがどんどん溢れて止まらない
僕は君の傍にいるから
声のかぎり叫んでくれたら、直ぐに君の元へ
走っていくからさ
しかし、声を上げられないわけも全てわかるんだ。
僕は君への思いに酔いしれるからいいんだ

私は、このように ”君への感情” を抑えようとしても、
抑えきれずどんどんと高ぶっていくような音楽が
たまらなく好きである。
例え、失恋したとしても、このような彼女と出会ったら、
その人の人生は充実していたと思う。

59.ジャニー・ギター / ペギー・リー


(26)眼が魅力的な女優1(釣り目)
1.剛力彩芽「友達より大事な人」
2.内山理名
3.藤本美貴「会えない長い日曜日」
4.三船美佳
5.鈴木亜美[love the island]

(27)眼が魅力的な女優2
(眼の間隔が広く、女性っぽい女優)

1.林田理沙(ブラタモリ、京都)
2.多部未華子(ツバキ文具店)
3.奥原希望(バドミントン世界チャンピオン, VS プサルサ)
4.シャーリー・マクレーン(アパートの鍵貸します)
5.榊原郁恵(第1回ホリプスカウトキャラバン優勝)「夏のお嬢さん」


(28)眼が魅力的な女優3(垂れ目)
1.「卒業」のキャサリンロス(The Sound of Silence)
浪人時代に見た。
ダスティンホフマンが最初のデートで連れて行った店で、
ヌードダンサーをバックしたキャサリンロスの目から
涙が落ちるシーンが一番感動した。
2.佐藤栞里「佐藤栞里の里帰り」


(29)私が好きな女優4
1.「カサブランカ」のイングリッド・バーグマン
2.「卒業」のキャサリンロス(The Sound of Silence)
浪人時代に見た。
ダスティンホフマンが最初のデートで連れて行った店で、
ヌードダンサーをバックしたキャサリンロスの目から
涙が落ちるシーンが一番感動した。
3.「ブーベの恋人」のクラウディア・カルディナーレ
4.「太陽がいっぱい」のマリー・ラフォレ
5.La Isla Bonita(Alizee)
6.「猫だけが知っている」の女優?
7.「キューポラのある街」の吉永小百合
8.長澤まさみ「真夏の果実」
世界の中心で愛を叫ぶ
9.多部未華子(ツバキ文具店)「明日への扉」
10.山口果林「繭子ひとり」

11.斎藤由貴「悲しみよこんにちは」
12.斉藤慶子「もの想いシーズン」(1985年S60教育センター頃)
13..菅野美穂「愛をください」
14.坂口良子「前略おふくろ様」
15.片平なぎさ「美しい契り」
16.山口智子「唐沢寿明&山口智子 結婚会見」
17.南明奈「夢を叶える魔法の言葉」
18.大竹しのぶ学校Ⅲ
19.和久井映見「息子」
20.足立梨花


(30)私が美人だと思う女優5
(しかし、ファンまではいかない)

1.北川景子
2.綾瀬はるか
3.後藤久美子
4.深田恭子
5.宮沢りえ
6.上戸彩「贈る言葉」
7.広末涼子「MajiでKoiする5秒前」
8.藤原紀香


(31)私が忘れられない女優6
1.「風と共に去りぬ」のビビアン・リー
2.「ブーべの恋人」のクラウディア・カルディナーレ
3.「避暑地の出来事」のサンドラ・ディ
4.「ひまわり」のソフィアローレン
5.「東京ラブストーリー」の鈴木保奈美
6.「時間ですよ」の悠木千帆(樹木希林)(1971年)


(32)私がカッコいいと思う男優
1.ポールニューマン「雨に濡れても」
2.「太陽がいっぱい」のアランドロン
3.「シェーン」のアラン・ラッド
4.「カサブランカ」のハンフリー・ボガード
5.「第3の男」のオーソン・ウェルズ
6.「トップガン」のトム・クルーズ
7.「007」のショーン・コネリー
8.「卒業」のダスティンホフマン
浪人時代に見た。
ダスティンホフマンが最初のデートで連れて行った店で、
ヌードダンサーをバックしたキャサリンロスの目から
涙が落ちるシーンが一番感動した。

9.ジョンウェイン「拳銃無宿」
10.クリントイーストウッド「荒野の用心棒」
11.「東京ラブストーリー」の織田裕二
12.草刈正雄「華麗なる刑事」
13.「ドラゴン桜」の阿部寛
14.仲村トオル「もっとあぶない刑事」
15.「難波金融伝」の竹内力「詐欺の手口」
16.『息子』の三國連太郎・永瀬正敏・田中邦衛


(33)自分の幸福を望むものは必ずしも幸福ではない。
他人の幸福を、社会からひとりでも不幸な人をなくしようと、
念願することによって、自分はかえって幸福になれる

安倍能成(あべ よししげ)

(34)自然を愛することで、世界が広がる。
その世界は、あなたを幸せにする

(盆栽より)

(35)そなえよ常に
(ボーイスカウト)
私は、小学校5~6年、ボーイスカウト隊員。
手旗信号や、蛇の皮むきゲーム、
高知でのキャンプや休暇村の夜間ハイク等
楽しかった思い出が多い。
野球部の監督でもあった西田先生が顧問であった。

(36)芸術品を見る時は、
<1>信解(しんげ)・<2>情解・<3>知解(ちげ)の順で
分からなくてはいけない。
それは経典の場合も同じ。

<1>信解とは、何がどう分かったのか、自分でもよく分からないが、
とにかく、新正のものであることをいささかも疑わないことである。
<2>情解とは、見ているうちに気持ちがよくなり、
こせこせしなくなり、清々しくなり、
広々とした気持ちになることである。
<3>知解とは、その内容が、どんなものか、
論理的によく分かることである。(岡潔)


(37)キュ-バ危機はこうして免れた!
フルシチョフからケネディ宛の電文が届く。
大統領閣下、今や分別を示す時です。
激情に身を委ねるべきではありません。
私は提案します。
我が国はキューバに向かう我が国の船が
いかなる軍備もしていないことを宣言します。
あなたはキューバを侵略する意図がないことを宣言してください。
あなたと私は、戦争と言う難題が
結ばれたひもの両端を引きあっています。
引けば引くほど結び目は固くなり、
結んだ本人ですら、ほどけなくなるものです

このように、フルシチョフは歩み寄った。
こうして、キュ-バ危機は免れたのである。

(38)フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)
「私たちが恐れなければならないのは、恐怖心そのものです。
恐怖心とは、退去を前進に変えるために必要な努力を
まひさせてしまいます。
 私たちの祖先が、恐れず信念を持って克服してきた危機と比べれば、
今はずっと恵まれています。
我々は国民の結束で生まれる温かい勇気をもって
目の前の困難な日々に立ち向かうのです」

(39)南京大虐殺とは、中国兵の仕業
http://unisoni.iinaa.net/senkaku3.htm#tyugokuhei
歴史の真実を世界の人に知ってほしい。
だからユネスコの「
世界の記憶」に登録されることを望む

(40)「捨てない生き方」(五木寛之)
●「ガラクタ」は孤独な私たちの友
●モノは「記憶」を呼び覚ます装置
●人付き合いは浅く、そして長く
●生き生きと老いて行く
●過去を振り返ってこそ、文明は成熟する
モノが捨てられない--それもまたいいではないか。
捨てる身軽さよりも、捨てない豊かさを。



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せ_背中を押してくれるもの
(1)昔頑張った自分が
押してくれるものである。
バドミントンをするときは、
中学時代に県体3回戦まで行った
バスケットボールの練習を思い出す。
小学6年の時、200m走で
今治市陸上競技大会で2番だったのが
何よりの自信になっている。
現実は走るとすぐに転びそうになるのだが、
こんな相手に負けるはずはないと
相手に挑む気迫だけは負けない。
スポーツの前の準備体操を適当にする人には
絶対に負けられない。
ソフトボールでは、ピッチャーが
投球モーションに入っても
守備を構えない人は、
野球をあまりやってないと
思われるので、そこへ打つ。

(2)高校数学で分からない問題に
ぶち当たった時は、
かつて全国模試で4番だった自分が
解けなくて誰が解けるのかと考える。
もちろん現在はそんな能力はないのだが、
少なくとも類題を探す気力だけはある。

(3)西伯方中にいたとき、
校長から英語の教諭が不足しているのだが、
教えてもらえないだろうかと頼まれた時、
かつて32日もヨーロッパを
寝袋一つで放浪したものが、
教えられないことはないだろう
と考え承諾した。



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そ_祖父について
(1)村上駒太郎。海軍志願。
戦艦・長門の機関長を務めた。
かつて連合艦隊 
山本五十六司令長官を旗艦として、
太平洋戦争の火蓋を切った暗号電報
「ニイタカヤマ ノボレ1208」
を発信したのは
戦艦・長門なのである。
一番祖父をかわいがってくれた艦長は
小笠原長生(ながなり)とのことである。
調べてみると、艦長であったのは、
装甲巡洋艦・常磐 と 戦艦・香取である。
どちらかで一緒だったことになる。
常磐は、大日本帝国海軍の装甲巡洋艦
小笠原長生 大佐:
1912年4月30日 - 1912年12月1日
香取は、大日本帝国海軍の戦艦
小笠原長生 大佐:
1912年12月1日 - 1913年2月12日
どちらの戦艦もイギリスで建造されている。
だから戦艦のエンジンの使用書も
全て英語であったそうだ。
艦長45歳、祖父27歳ぐらいの時である。
また艦長は自分の肌着は
部下には絶対に洗濯させなかったそうである。
海軍の下着はパンツ、陸軍はふんどし。
私の名前、阿部一生と弟の名前、秀生の”生”は
長生の”生”からもらったとのことである。
勲五等を授かる。
叔母が勲章を東京に持ち帰るが、
泥棒に入られ、お金は盗られず、
勲章のみ被害に遭う。
能島・村上水軍の末裔である。
今治市喜田村。
21代目で村上家の墓は
車10台ほどの広さがある。
(現在の村上家は24代目
昔、村でポンプを使用するのに
使用書が英語で書かれていた。
当時は英語は敵国語なので
誰も分からなかったが、
祖父だけが英語を理解出来たそうです。
そして喜田村・拝志・東村の
総代も務めたそうである。
背が高く、
白くて長い顎髭を何時も蓄えていた。
手は器用で、左右どちらでも使えた。
ただご飯を食べる時と字を書くのは
右手であった。
口数は少なかったし、
戦争の話は一度も聞いたことがなかった。
享年83歳。

(2)長男、正輝は19歳で空軍志願。
体重が大きいので、零戦の整備士となる。
しかし、諦めきれられず
体重を落とし零戦のパイロットになる。
出撃する時、喜田村の上空を3回旋回して、
絹のスカーフを落として行ったそうだ。
敵機より膝に銃弾を受け帰還。
傷口より菌が入る。
レプトスピラ症(ワイルス病)
呉海軍病院に入院するも死亡。享年24歳。

(3)私が幼少の頃は、
母の実家でもあったのでよく泊まった。
台所と風呂場に井戸が2つあった。
家は広く庭があり、
典型的な農家の形をしていた。
茅葺屋根で、納屋があり、
古い本がかなりあり、
私も意味もわからないがこっそり読んだ。
空気銃もあり、
兄から私も撃たせてもらったことがある。
雀を打ち落としていたようだが、
私はバレーボールを撃った。
弾は潰れていなかった。
当時のトイレは
台所の井戸から離れた屋外にあり、
肥溜めに2本の板を渡しただけであった。
夜は灯りもないので懐中電灯を持って行く。
特に子供には
肥溜めに落ちる危険性があった。
叔父さんは学校帰りにあぜ道の肥溜めに
落ちたことがあるそうだ。
私は家ではよく寝小便をするので
心配であったが、
何時も真夜中に祖父に起こされ、
縁側からした。
お陰で一度も寝小便はしなかった。

(4)母は5人兄弟(男2人、女3人)の長女。
母は若いころ電話交換手に
なりたかったようです。
なぜなら当時の電話交換手の
羽織袴姿の立派な姿に、
憧れていたからである。
募集10人程度に対して
75人余りが受験したそうです。
校長と担任の推薦状が必要だったそうです。
当時の母の成績は音楽以外は
優だったそうです。
そして入社試験は合格。
ただし親の承諾書が必要であったようです。
祖父は腕試しのつもりで
受験させただけだと言って、
承諾書は書いてくれなかったとのことです。
「女は手に職を持たないといけない」という
考えだったようです。
しかし、人間万事「塞翁が馬」である。
戦時中、今治の電話交換所は
1945年4月26日に
爆撃を受けて
電話交換手10人が亡くなりました

もし、祖父が普通の人であれば
承諾書を書くであろうから、
私はこの世の生を受けていないことになる。
私なら、よくやったと言って、
赤飯を炊いて承諾書を書くであろう。


(5)私の体の中に村上海賊の血
流れていること、
また海賊の中には
私のような真面目で優しい人もいた
という事も分かった(何か!)。

(6)妻は、41歳で嗜眠性脳炎
(シミンセイノウエン)で亡くなった。
当時村では流行したそうだ。



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そ_損だと思うこと

(1)大学のクラブでダンスパーティー
する時は、いつもレコードの係であった。
デッキや大きなスピーカーを持っているのは
自分しかいなかったからだ。
仲間のみんなは女の子とチークダンスを
踊っているのに、
私は次の曲のレコードの準備に
取り掛からねばならなかった。
当時、一番人気のあったのは、
青い影(プロコル・ハルム)」であった。
米国の金髪の女子学生とも踊れなかった。


(2)カメラマン
結婚式、同窓会や校友会の
カメラマンになると、
当然、
みんなが食事をしている間を
撮るわけであるから
自分が食事をする時間が少なくなる。
当然、
美味しい食べ物は残っていないのです。
出来上がった写真を見ても、
自分はほとんど写ってはいない。
しかし、写真を撮るのが好きな私は
どこにも不満をいう事はしません。


(3)読書をしないこと。
乱読でいいから多読すれば、
いろんな文章が頭に残ると思う。
その中には、素晴らしい語句、
詩があるでしょう。
それらを使って文章、
詩を書くことが出来れば、
自分の書いた文章や詩に
感動することが出来ます。
一度でいいから、
自分の書いた文章に感動してみたい。



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た_大変だと思ったこと
(1)私が西伯方中に赴任した時は、
準僻地2級だったと思う。
とにかく学校の予算が少ないと思った。

県理科作品、優秀賞(A.Y子、A.M子)、
日本学生科学賞、最優秀賞(I.Y、A.T)、
日本学生科学賞、優秀賞(N.S子、O.T子)、
日本学生科学賞、科学技術庁長官賞
(K.S、A.T、D.H)、
日本学生科学賞、優秀賞(A.K、A.Y、A.Y)、
日本学生科学賞、優秀賞(A.R子、A.H子)、

部活で県で優勝するには、
かなりの練習が必要であるが、
理科研究も全く同じである。
夏休み中どれだけ深く研究に没頭出来るか、
かなりの時間が掛かっている。
私は、松山で行われる日本学生科学賞の
表彰式に生徒を引率した。
後日、領収書を事務に持って行った。
その時に言われちゃいました。
「先生には悪いけど、
今年のPTA会費はもう使い切りました。」
何処かの号泣議員のように、
領収書が無くても交通費が
支給される世界とは違いますね。
もっと教育に予算を!!
例えば体育館の屋根のペンキ塗りは
土曜日の午後、先生達みんなで塗った。
部活動も同じ。
私は剣道部の顧問をしていたが、
春や秋には色々な島で大会があった。
生徒の武具を車に積んで
フェリーで移動したが、
交通費も全て自腹であった。

(2)西伯方中では私は、
理科と英語と保健体育を指導した。
私は小学校の教諭免許と
中学・高校の理科の免許はあるが、
中学の英語と保健体育の免許はない。
校長は大変だなと思った。
教諭の数が足りなくても、
少なくとも1年間はこのメンバーで
学校経営をしなくてはいけないからだ。
職員会議で校長が
「美術を誰か教えてもらえないだろうか」
「・・・」「私がやろう」
おかげで学期末にはこんな風景があった。
この絵の中で誰が一番いいと思う?
みんなの先生方が集まって評定するのだ。

これらの事は東京では
全く考えられないことである。
免許なしで教壇に立つ教師はいないと思う。
例えば、美術の先生は
みんな東京芸大卒である。
理科の時間も1時間でも足りない場合は、
その1時間の為に免許を持った講師が来ます。


(3)北国の人々やスキー場の人々は、
夜はいつも水道の水を
少し出しっぱなしにして寝ます。
水道管が凍らないようにする為です。


(4)小学3年ぐらいの時、三角形の授業。
2辺が等しくて、一つの角が直角の三角形を
私が[直角二等辺三角形」と答えたら、
「そんな三角形はありません」と、言われた。
中学校では習うが、
小学校では習わないからなのだろう。

(5)小学校5年ぐらいの時、円錐の授業。
A君が「斜めに切ったら
切り口はどんな形になるのですか」
楕円になるのか、下膨れの楕円になるのか、
先生はじめ誰もわからなかった。
高校3年の数学の微積分の授業で
初めて楕円だと分かった。
私も、それまでの、
もやもやがスッキリした瞬間だった。
小学校の先生は文系だと思うが、
理系の数学も勉強していないと、
とんでもない生徒の質問にも
答えられないことがあるという事である。
小学校といえども大変ですね。


(6)私にはH病院の事務局長を
していた時代があった。
毎朝5分程度の朝礼がある。
その日の諸注意事項や訓示を
若い看護師に伝達するのである。
病院全体に目を配らなくてはならない。
また地方から出てきた40名余りの看護師の
生活の面倒も見ないといけない。
結婚や人生相談も
しないといけないのです。
訓示は苦手であったが、
自分を全て出さなくてはならない、
やりがいのある仕事だと思った。


(7)戸塚第一中時代、
日曜日に父親参観日をすることになった。
校区内には、国家公務員の住宅がある。
急いでクラスの父親の職業を確認してみた。
自治省や大蔵省、
それに衆議院議員や参議院議員がいた。


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た_体力の限界を感じたとき

(1)戦場ヶ原へキャンプに行った時。
地図にあるはずの道が分からなくなって、
崖を登った。
しかし体力の限界を感じて、山を下りた。
そして池の傍にテントを張った。


(2)バトミントンを2時間近くすると、
約8000歩。
同時に調査員とか、情報誌配布が
重なると17000歩~2万歩近くなる。
体がばて気味になる。


(3)小学3年生ごろ学校にはプールはなく、
夏休み中に水泳学校が天保山海水浴場で、
1週間ぐらいあった。
最終日に、距離測定。
自分としては、体力の限界まで
クロール、平泳ぎと横泳ぎで、
浜の端まで泳いだつもりであったが、
たったの54mであった。



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ち_父について
(1)阿部研一。
戦前は戦艦大和を建造した広島県の
呉海軍工廠(こうしょう)で働いた。
戦争中はニューギニアで道路を作ったそうだ。
その後、ビルマのインパール作戦に参加した。
それは太平洋戦争で最も無謀と言われ、
およそ9万人が出兵して6万人以上が
命を落とした作戦である。
食べるものもなく戦友はほとんど餓死した。
撤退する途中も、力尽き、
わざわざ死体の傍に寄り添って
みんな倒れていったそうだ。
1945年の終戦も知らず
2年間ビルマのジャングルの中で
逃避行したそうである。
バナナは蒸すか焼かないでそのまま食べると
下痢したそうだ。
呉海軍工廠での技術があったので、
飛行機のプロペラからナイフを作って、
現地民の米と交換したそうだ。
それをお粥にしてなんとか生き延びたそうだ。
その技術がなければ父も餓死していたと思う。
その後イギリス兵の捕虜になった為、
食事は良かったそうだ。

父のボヤキを母は聞いたことがあるという。
空軍や海軍は絹のスカーフを巻いているが、
陸軍は木綿のタオルを巻いているのだと。
現地民の生活は貧しかったという事は
聞いたことがある。
戦争当時の話はあまり話してはくれなかった。

(2)1947年帰国してからは、今治に帰って、母と結婚。
父の友人(大工だと思う)と二人で、
我が家を作ったそうだ。
とにかく、腕は器用であった。
竹を切って、乳母車を作って売っていた。
材料の竹は馬車で我が家に運んでもらった。
当時はまだ馬車が見られ、
私もフンと共に記憶に残っている。
歩道と車道の間一杯に積み上げられた
竹の山の上で、
この時ばかりは私たちと近所の子どもは
大きな船に見立てて遊んだものだ。
この竹をある長さに切って、
2階の仕事部屋に運ぶまでは、
前の国道196号線をかなり占有しており、
今なら警察から指導されると思う。
長い竹を細く切り、編み上げていくのである。
内装の布は母が、ミシンで縫っていた。
最後の車輪には
黒いコールタールを塗っていた。
この竹の乳母車は非常に評判がよく、
松山、宇和島や西条からも
お客が買い付けに来ていた。
従業員にササやんと
ターちゃんとマサやんがいた。
ササやん夫婦は気さくでよくみんなで夜、
カニを頓田川の河口に採りに行った。
父は、時々竹とんぼを作ってくれた。
回転させると、
羽の部分だけが離れるのである。
これが非常によく飛んだ。
この竹とんぼを竹の余った所を使用して、
数分で作ってしまうのだ。
非常に器用だと思った。
だから私の小さい頃は地域の先輩達に
「車屋の子」と、呼ばれていた。

(3)阿部家は士族の出である。
8人兄弟、(男5人、女3人)の末っ子である。
父は真面目で遊ぶことはなかったが、
時々兄たちに芸者遊びに
連れて行ってもらったことがあるらしい。
もし、父が長男であれば
私が阿部タオル会社を引き継ぐことになり、
私も毎晩のように芸者遊びが
できたかも知れない。

(4)父は優しい人であった。
私の弟が友人の保証人になった時、
わざわざ東京まで
お金を腹に巻いて持って行った。
現在の価値にすると数百万円。
そして「お陰で靖国に参ることができたし、
私の妻の餃子が食べられた」と
喜ぶような人であった。
私なら、友人の父親に
何とか責任を取ってもらうように
話に行くと思う。

また、父には仕事で使っていた
大事なスクーターがあった。
私は高校時代、よく遊びで
スクーターを乗り回していた。
港へ行った時に道路上の穴に
引っ掛けてしまった。
そのショックで
洩れたエンジンオイルに引火して
全焼させてしまった。
その時も父は何も言わなかった。


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で_出来なかったこと

(1)戸塚第一中で、職員会議中は
顧問がいないので、
部活動で事故が起きると
問題なのではないかという意見が出た。
すると次の職員会議中から
部活動が中止になった。

ところが
、S(タワシ)先生は
職員会議に出席しないで、
グランド全面を使って
サッカーを指導していた。

(2)戸塚第一中では、
給食指導も勤務に入れるので、
拘束されるのは、15時30分までである。
それ以降はいつ帰宅してもいい。
東大出身の先生は静かに帰っていたようだが
私には出来なかった。
なぜなら、
現実は生徒の最終下校は16時であり、
部活動も18時までである。
職員会議も18時30分には終わる。
なぜなら会議の司会進行は
管理職以外の教師2人が
順番にやるからである。
つまり18時30分には
終わるように進める事が可能である。
若い私が当番になった時は
司会は年配の先生がするので
いつも記録であった。
18時30分には終わるようというのは
これ以降は体育館や校庭は
社会教育の為に
地域の人々に開放されるからである。

これに対して、今治南中では、
勤務時間というのは、特にない感じであった。
遅く帰る先生の方が熱心な先生であるからだ。
職員会議もいつ終わるのかわからなかった。
なぜなら会議の司会進行は
管理職の教師がやるからである。
私は家の修理の為に板を買おうとしたが、
ホームセンターの閉店が19時。
結局日曜日までの
1週間19時までには帰れなかった。

(3)ベトナムで仕事をしているS氏が、
こちらは日本のバイクが人気で、
故障していてもいいから送ってくれれば、
いくらでもさばいてあげると話があった。
1990年、平2年頃、約40年近く前である。
私も古物商許可証までは取ったが、
それ以上は出来なかった。
結局、自分はバイク王にはなれなかった。


(4)もし、生まれ変われることがあったら、
次の2つの事に、挑戦したい。

<1>「カ」の口のように、
刺してもいたくない注射針を開発したい。
今の注射針より細い針を
製造する会社はあるそうであるが、
後継者がいないそうである。
最近、人工透析を断って、亡くなった人がいたが、
毎回のこの痛みに耐えられなかったものと思われる?

(a)針を使わない注射器
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1412/04/news087.html
(b)針を細くして痛みを少なくした注射器
https://ja.wikipedia.org/wiki/ナノパス33


<2>神経細胞を繋ぐ技術を開発したい。
下半身麻痺で、車椅子の生活を余儀なくされる人を
なくしたいのである。
血管を繋ぐのは出来るのであるから、
神経細胞も出来るはずである。

iPS細胞を脊髄損傷の患者さんに移植して、
下半身麻痺の機能を回復する臨床研究が、
慶応大学の研究グループが厚生労働省の
部会で了承されたようである。
再生医療において日本は大幅に遅れている。
海外では脊髄損傷患者に移植する治験は
数年前から行われているようである。

(5)私は71歳を過ぎても
バドミントンをして楽しんでいます。
しかし、次のような行動は未だに出来ません。
(ある男性)練習中に自分の汗がコートに落ちた時、
自分のタオルで床を拭いてくれます。
そのタオルで自分の顔の汗を拭いています。
(ある女性)試合中、自分のシューズの裏を
自分の手で拭いています。
多分床の汚れか汗でシューズが滑ったのでしょう。
私がそんな行為が出来ないのは、
体育館のコートがそこまで神聖な場所であるという
認識に欠けているのかもわかりません。



(6)戸一中の先生仲間で、
冬はよく土日に泊りがけでスキーに行った。
当時は土曜日は半ドンであった。
授業が終わってから出かけるので、
旅館に着くのは夜である。
しかし、T先生は土曜日はよく休暇を取っていた。
おまけに自分のクラブで
スキーを教えている生徒も連れていく事があった。
当然生徒は、学校には体調不良として
欠席届けを出していた。
私には出来ないことである。
現在は、土日が連休になっている。
うらやましい限りである。


(7)ユニソン錬成塾の生徒を夏休み中に
合宿が出来なかった事。
私の同級生に海の傍に別荘らしき建物を持っていた。
私は、この建物を夏に一日借りられないかと、
考えたことがあった。
ここで、一日中生徒たちに勉強をさせようと思ったのである。
小学生には、中学生が教える。
また中学生には高校生が教える。
そして私は高校生を教える。
時間割を作り、疲れたら目の前の海で泳ぐ。
スイカ割等のイベントも生徒たちに任せる。
最後に彼の家の大掃除をすれば、
彼も喜んでくれると思った。
あれこれ空想だけは広がっていた。
しかし、同級生は病弱で早く亡くなってしまった。



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ど_どきどきした時


(1)
小学5年のとき、
100m走で日吉小学校代表に選ばれた。
「位置について」の声がかかった時は、
心臓が今にも爆発しそうであった。
この時の予選は
3位以内に入れず決勝に残れなかった。
ただし、小6では200mで出場、
今治市2位(30.4秒)であった。

(2)中学3年の4月9日(私の誕生日)、
入学式の時である。
生徒会長として、新入生への挨拶をした。
「少年よ大志を抱け」。
この時、あまりの緊張で
膝ががくがくと震えた。
身体が宙に浮かんでいる感じがした。

(3)中学3年の夏、今治市の
バスケットボール大会決勝。
前半は相手の北郷中学校は
マンツーマンできた。
マンツーマンは中学ではあまり使わない。
相手監督は意表をついたつもりだが、
こちらは練習を積んでいた。
ダブルスコアで勝った。
問題は後半、
ツースリーのゾーンディフェンスできた。
そのうえ相手は5人ごっそり入れ替えてきた。
こちらは6人しかいない。
スタミナがなくなり、
だんだんと点差が無くなってきた。
私も5ファールで初めて退場。
試合が見れなくなった。
あとで聞くと、1ゴール差ぐらいで
やっと優勝したとのことであった。
(備考:昭22、
北郷中と波方中が合併して北郷中に。
昭38、大井中と小西中が合併して大西中に)

(4)小学校の漢字のテスト「織」が出た。
採点は隣の子がすることになっている。
丸をくれた。
しかし、音と続けないといけない
ことに気付いた。
そこで、
隣のA君にもう一度見るようにいった。
ところが見ようとしない。
それまで漢字のテストは
全て満点だったからであろう。
その時先生が近くに来て
どうしたのと聞いてきた。
このとき私の答案を見れば
間違いに気が付くのだが
「何でもないです」と答えてくれた。


(5)私は、結婚式は
台北の法務局のようなところでした。
集団結婚式である。
保証人は一人だと思っていたが、
当日聞くと二人とのことであった。
急いで妻と保証人のKさんは、
もう一人を連れてくるために家に帰った。
式が始まっているのになかなか戻らない。
順番に式が進んでいるが、
台湾語か北京語なのか
言葉も全く分からない。
最悪の場合は私一人で
結婚式が出来るのだろうか?と、
どきどきしながら待っていると、
あと2組目ぐらいのところで戻ってきた。
お陰で費用は154円位で
結婚式を無事済ますことができた。
あと、結婚の時の写真を撮った。
1000円余りしたと思う。
結婚の費用はこれだけである。
日本に帰って大学のクラブの友人たちが、
2人の為に池袋の西武で
披露宴を開いてくれた。
みんなありがとう。いつまでも忘れない。

テレビで見たが、
葬式も市に頼めば無料でやってくれるそうだ。


(6)スウェーデンのストックホルム
でのことである。
ユースホステルは白い帆船である。
楽しみにしていたが、日本人お断りであった。
何か問題を起こしたのであろう。
当時はスウェーデンといえば、
フリーセックスの国で有名であった。
そこでスカンセンの公園で
野宿するつもりであったが雨。
そこで留学生の下宿に
泊めてもらうことにした。
しかし管理人がうるさいとのこと。
やはり夕方管理人がチェックに来た。
私は急いで彼のベッドの下に身を潜めた。


(7)中学1年の理科の最初の授業は
浮力についてであった。
自分では理解しているのか、していないのか
はっきりしていなかった。
一学期中間テスト、中学で最初のテスト。
成績上位者は理科室に張り出されるのだ。
一応全部書いたが、
満点かそれとも0点か、
自信が全くないのである。
要するに浮力について、式は立てられるが、
はっきりと理解できていないのである。
どきどきしながら待ったが、
結果は1問程度間違えただけで張り出された。
ホットした。
しかし、当時なぜ正解なのかも
理解できていなかった。
それにしても、
出来たかどうかはっきりと認識できるのは、
ある程度、頭脳が成長してからか、
またはかなり勉強して
実力ができた後でないと
分からないのかもしれない。
今なら完璧に理解できている。
それにしても浮力は、
中学1年生では難しいのであろう。
現在は高校で学習する内容になった。


(8)学生時代に名古屋工業大学に
行っている友人と会った。
どんなものか英語の講義に潜りで出てみた。
端から順番にテキストを訳していった。
私の2人ぐらい手前でチャイムが鳴った。
テキストも持っていない私であったが、
もし当たったらどうしていただろうか。



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な_無くなったもの

(1)冬の夜、町内の小学生が組を作り
「火の用心、マッチ一本火事の元」
カチカチと言って歩く風景。

(2)「金魚え、金魚」の金魚やさんの声。
毎日家の前まで売りに来ていた魚屋さん。
朝早く、売りに来ていた豆やさん。
小学校の前ではよく、ゴム鉄砲を
針金で作って売っていた人。
歩道ではよくガマの油を売っていた。

(3)亥の子さんの子供たちの声。
「一分、二分、三分さくらの四分の木、
五よの松の 六つの木、七つなしの木、
八つ柳のくわの木、
九つこの家商売はん盛するように、
男の子ができるように」(?)


(4)縁台・・・夏の夕方、
歩道や路地に縁台を出して、
近所の人が話したり、ビールを飲みながら
将棋を指したりしていた風景が見られた。
夕涼みを兼ねていた。
しかし最近は見られなくなった。
各家庭にテレビが普及したからかもしれない。


(5)幼少の頃、
祇園さんの夜(今治の夏まつり)は
我が家の前(国道沿いの旭町)は
かなりの人の行列で埋まっていた。


(6)暑い夏の日の夕方、
夕立がよくあったと思う。

(7)夕方になると、
家の中まで真っ赤になるような
夕焼けがよくあったと思う。


(8)小さい頃よくラジオから聞こえた浪曲。
中央図書館からよく聞こえた詩吟。


(9)火吹き竹。
幼少の頃は私はご飯の火の係であった。
父の仕事で余った竹を燃やした。
火吹き竹で,付きっきりで火力を調節した。

(10)昔はホイトと呼ばれた人がいた。
私が小さかった頃、
家庭のゴミや残飯は各家の前に、
木製のみかん箱を置いており
その中に捨てていた。
時折そのゴミ箱の中にある残飯を
食べ歩いている人がいた。
その人をみんなは、ホイトと呼んでいた。
終戦後6~7年ぐらいまでは、
それほど貧しい人がいたということである。
 また今治の駅前には、
戦争で足や腕を失くした、
元兵士達がいて、
アコーディオンを弾いていた。
そして足元には、
募金箱が置かれていた。
社会の福祉政策が
まだなかったということである。



(11)今治の祭りの時は、吹上(今治城)で、
紙相撲をやっていた。
自分が優勝すると思うお相撲さんに、賭けるのである。
大関や横綱まで勝ち上がると
かなりな数の岩おこしが貰えるわけである。
また地球コマも売っていた。



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な_納得できないこと

(1)島の一時停止。
幹線道路に入る前に
一時停止ラインがあるのは、わかる。
しかし島は建物がないうえ車が
走っていないのだ。
大三島では50ccの原付バイクで、
時速20kmぐらいで走っていた。
前を見ると右方向に
大山ずみ神社があるという
道路標識があった。
右を見ると車は一台も走っていなかった。
とにかく建物がないから見晴らしはよい。
今日も参拝客は少ないなあと思いながら、
そのまま、まっ直ぐ進むと、
後からサイレンを鳴らしながら
隠れていたパトカーが来た。

(2)大島でも50ccの原付バイクで
時速20kmぐらいでちんたら走っていた。
右前方にパトカーが見えた。
前方180度近く見晴らしがいい。
こんなところでスピード違反する車が
いるのかなあ、
そんなことより車が
一台も走っていないじゃないかと
思いながら真っ直ぐ進んだ。
すると右前方に
止まっていたパトカーがやって来た。


(3)お正月なのに吹揚城の横の道路が
駐禁になること。
今治市民が町の中心の
商店街やお城に来るのは、
お正月とお祭りしかない。
お祭りの時は、
市が学校などの公共施設を駐車場として、
確保するが、正月はしない。
しかし吹揚城にはかなりの
市民が初詣で訪れる。
だから年の初めの初詣で駐禁の罰金を
払わされる人は
かなりの数になると思う。
警察に聞くと
駐車場は神社側が
用意するようにとのことである。
これでは初詣でお城に来る人の足が遠のく。
正月ぐらい吹揚城の横の道路の駐車を
認めてもらいたいと思う。


(4)従軍慰安婦の問題である。
私は日本の従軍慰安婦だけが
世界中から性奴隷だと
非難されるのには納得がいかない。
勿論、従軍慰安婦は良かったと
言っているわけではない。
問題はあると思います。
日本軍も戦地での強姦を防止するために、
国内の売春制度を利用したのである。
当時は合法的な制度であった。
世界中から非難されるのを覚悟で言うと、
私は従軍慰安婦制度は
日本人のやさしさの表れ
ではないかと思っている。

戦争と性の問題は有史以来、常にあった。
ドイツ軍は強姦し放題だし、
アメリカ軍もノルマンディー上陸後
フランスでレイプ

フランスのある住民は「ドイツ占領中は
男たちが隠れなければならなかったが、
米兵が来た後は
女性を隠さねばならない」と言った。
ロシア軍も日本人女性を強姦。
韓国軍もベトナムで強姦、
ライタイハンの問題には目をつむっている。

また、満洲や朝鮮半島から
戦後に引き上げてきた日本女性たちが
ソ連兵や中国人、朝鮮人にレイプされたことは
大きく報じられていません。

性奴隷という言葉は、
アメリカの奴隷制を覆い隠す為に作られた。
従軍慰安婦を非難するなら、
戦時中の欧米列強、ロシア、韓国も同じように
避難されなければならないのではないか。



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に_苦手なこと
(1)文章を書くこと。
原因は分かっている、読書をしないから。
小学生の頃から本を読むことより
「子どもの科学」の工作が好きであった。
「中2コース」の付録に
毎月推理小説があったが、
読んだのは1~2冊ぐらい。
私が覚えている本といえば
「どくとるマンボウ航海記」(北杜夫)、
「なんでも見てやろう」(小田実)ぐらい。
とにかく乱読でいいから、どんどん読めば、
好きな語句や文章が頭に残っていくと思う。
好きな作家に出会えば、
その表見方法などが身に付くと思う。
そして、自分が文章を書く際には
それらの語句や文章が
自然に出てくるようになると思う。

コンピューターのプログラムを
書く時も同じである。
とにかく簡単なプログラムから書いていくと、
basic言語ではサブルーチンを、
C言語では関数を覚えてしまう。
そのうち長いプログラムになっても、
まずフローチャートを書けば、
あとは簡単に言えば、
覚えているサブルーチンや関数で繋げていけば
プログラムが書けるようなものである。

人間の体だって、ながい進化の過程で
様々なパーツの遺伝子を作り上げてきた。
そしてそれらを組み合わせれば
人間の体が出来上がるのでは
ないかと思っている。
あるところではアメーバ(白血球)
であったり、
ゾウリムシの繊毛(気管支の線毛)
であったり、
爬虫類の鱗(手足の爪)であったり。

(2)人の意見をまとめること。
中学3年の時生徒会長として、
毎月終わりの土曜日の午後には、
翌月の学校目標を決めなければならなかった。
各学級の中央委員が目標を持ち寄り、
決めるのであるが、
40余りあるので大変であった。
そこで生徒会本部を作り、
数を減らして決めやすくしたと思う。
これは、話し手の意見を
その場ですぐに要約する力が
足りないということではないかと思っている。
その力があれば
この意見はA君と同じだなとか、
B子とは反対の意見だなということが分かり、
うまく進行できたと思う。
私は、この要約するのに時間がかかるようだ。
だから私はよく生徒に
言いくるめられることが多かった。
しかし後でゆっくりと考えれば
そんなことはないと思うことが、
かなりあったような気がする。

これには言い訳がある。
私の目の前の最前列に
いつも中学2年の彼女が座っていた。
私が一目惚れした彼女なのだ。
その上彼女の兄が東大生なので、
対抗意識があった。
彼女にだけはいいところを見せたい。
委員会の進行はカッコよく進めたい。
時々彼女を見ると、目が合ってしまい、
ドキドキする。
しかし、焦るところは絶対に見せたくない。
私には、他のクラス代表の委員より
実は彼女しか目には入らなかったのである。
つまり委員の意見を聞いてうまくまとめて、
さばいていく心の余裕がなかったのである。

(3)感動する話を聞かせること。
もともと読書をしないから
面白い話とか、感動する話とかが、
私の頭の中に全くないのが原因である。
面白い話とか、感動する話とかを見つければ、
その都度記録にでも残すようにしよう。

(4)学校の教師は様々な分野の
得意な人の集団でもある。
例えば運動会の後の反省会では、
運動会の中での生徒の活動をよく見ていて
その生徒の話題で盛り上がります。
生徒のどのような動きが面白いのか
それを常に探せる目を持った教師が
一人はいるのです。
S(タワシ)先生などは得意である。
同時にその話に同調する先生がいて
初めて会が盛り上がるのである。
私は聞いて同調し盛り上げるタイプであろう。
すごいカメラマンというのは、
その運動会のある一瞬を捕えて、
楽しい運動会全体を
表現するのではないかと思う。

(5)幼少の頃、毎日クニぼうが
タカぼうと私に
「ピン子ちゃんとポンコちゃん」の
話をしてくれた。
面白いので毎日話をねだった。
こんなに面白い話を
毎日自分で創る才能は私には全くない。
内容なんて覚えていないし、
大したことはないと思うが、
小さい子供が次は、次はとねだるような話を
その場で創れるのはすごい才能だと思う。

(6)マラソンとかの長距離走。
私の筋肉は短距離用の横紋筋が多いので
長距離走には向いていません。
もし、素質があれば、
市民マラソン、トライアスロンや
ロードレースに必ず挑戦すると思う。

(7)ヨット。
まず波を見て風を読む力がないといけません。
少しでも風さえあれば
ヨットはどの方向にも進むことができます。
しかし、風上に向かって
一直線には進めません。
風が来る方向へ
切り上げられる限度いっぱいに、
右に左にジグザグに前進します。
クローズという。
この限度いっぱいにというのが、くせ者です。
クローズ・ホールド。
艇が限度いっぱいに傾き、
ひっくり返るのではないか
という恐怖との戦いだと思います。
これを怖いと感じる人は
レースには勝てません。
丁度スキーで急斜面を滑る時に
なるべく前傾姿勢を保たないと、
スピードをコントロールできません。
ところがスピードが
どんどん出てくると怖くなり、
前傾姿勢が保てなくなります。
この人もスキーのレースには勝てません。
ヨットも同じです。


(8)10分前精神が出来ていない。
何をするにしてもいつもギリギリである。
例えば、会議でもなんでも
10分前に着いたら、
その10分がもったいないと
考えてしまうのである。
しかしその10分こそ余裕の時間であり、
人々の顔を見てもいいし、空を見てもいいし、
詩ができるかもしれない。
こういう時間にこそ、
豊かな人生を感じとれるのかも知れない。

だいたい遅れることもたびたびある。
例えば台湾に飛行機で行く時、
羽田空港への高速道路で
走行と追い越し車線で
いじめの2台のトラックに会った。
結局その便に乗れなかった。
急いで、迎えに来てくれる人への
連絡に追われたこともある。


(9)高所恐怖症。

(10)寒中水泳をしている人を尊敬します。
子供の時は谷川でも泳いだが、
今はダメです。夏でも冷たくて泳げない。


(11)開脚前屈が出来ない。
高校1年の体育の最初の授業で
「開脚前屈の姿勢で、頭が床に着かない
生徒は1年の単位はあげません」
これからが、大変であった。
銭湯へ行った日は必ず開脚前屈をした。
お陰で1年後には頭が着いた。
現在は週3日バドミントンの
準備運動をするが、全く着かない。



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は_始めたきっかけ
(1)写真を始めたのは・・・
中学時代に友人のH君の家に
写真の現像ができる部屋が
あったからである。
PENTAX SPのカメラは
今治にはないので松山まで買いに行った。
それにやはり好きな子がいたからであろう。
旅には常に一眼レフカメラと一緒であった。
私はこの重さはあまり気にはならない。
やはりカメラが好きな証拠だと思う。

(2)年賀状を始めたのは・・・
先生からの返事が欲しかったのに、
来なかった」と
悲しそうに生徒に言われたからである。
それまでは年賀状は出さなかった。
面倒だからである。
それに一日でもはやく
愛媛に帰省したかったからであろう。
今では元気で頑張っている報告
みたいなものである。
どれほどの生命力で
現在生活しているのかがわかる気もするし、
その人の人生観を感じるものもある。
しかし、最近は同僚の訃報が増えてきて、
寂しい気もする。
また今年で終了しますとか、
卒業しますとかいう人も出て来だした。
90歳が、限度なのかも知れない。
なんだか生きるパワーがなくなった
のではないかと思ってしまう。
その時はエネルギーや生命力を
もっとUPしなくてはならないと思う。
さあ今年は何にチャレンジしようかと!
賀状は生きる証、音もなく(ギロバチ)

(3)バドミントンを始めたのは・・・
朝起きたとき歩けなかったことである。
もしかしたら、
筋萎縮症ではないかと心配した。
ある日3500歩ほど歩くとお尻が熱くなった。
つまり、足の血液の流れが
悪かったのが原因である。
まず超簡単筋トレと卓球を始めた。
卓球は教育センターにいる時
2年間昼休みにした経験があり、
私にはほとんどの人が
返せない得意なサーブがある。
その上私の右手には
チタン合金が入っているため
大事をとって、なるべく使わなかった。
しかし、だんだんと右手が上がりだすと、
バドミントンを始めた。
なぜなら、
バドミントンはかつて戸塚第一中時代に
S(タワシ)先生にいつも
ラブゲームで負けていた
悔しさがあるからである。
今度はこちらがラブゲームで
お返しをするつもりである。
もうかなりなお年だと思うから。
10歳近く上だと思う。


(4)パソコンを始めたのは・・・
西伯方中時代、
U君が「I/O」と言う雑誌を
教室に持ってきていたので1週間没収。
1週間後にU君が理科準備室に
「先生マイコン部を作ろうや」と言って,
雑誌を取りに来た。
「マイコンって何だ?」。
ここから私の人生がおかしくなった。


(5)麻雀を始めたのは・・・
学生時代、友人は仲間を作るために
麻雀の本を1冊貸してくれた。
私はやる気がなくそのままにしていた。
1~2週間立ったころ、
返してくれと催促に来た。
私はせっかく借りたのに
読まずに戻すのはもったいないと思った。
読んでしまったのだ。



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は_恥ずかしかったこと

(1)幼稚園の帰り
両手に女の子と手をつないで帰っていた。
水たまりがあったので、
勢いをつけてジャンプしたが、
降りた拍子に大きなおならが出てしまった。
すると両サイドの女の子が
急いで手を放して離れてしまった。

(2)小学3年の時、昼休みには先輩たちが、
両サイドに立って、
マット運動の空中回転を教えてくれた。
自分の番になり、
うまく空転が成功したのはいいが、
その時鼻水が出て恥ずかしかった。
ただ周りに女子がいなかったのが幸いした。

(3)小学6年の時、野球の試合で、
相手のファールボールを
こちらのレフトが捕った時に、
相手チームの3塁ランナーがタッチアップした。
「ファールボールじゃないか」と
みんなで抗議して、
こちらのルールの無知をさらけ出した。

(4)小学6年の時、
野球の試合で、3塁にランナーがいる時に、
私の牽制球が暴投になった。
監督からは
3塁への牽制球は投げるなと注意された。
だから3塁ランナーに対しては、
モーションだけしかできなかった。

(5)中学1年の理科問題で
「柿はどうして柿色に見えるのですか」
という問題を出すつもりであったが、
柿色よりカーキ色の方がかっこいい気がして、
「柿はどうしてカーキ色に見えるのですか」
という感じの問題を出した。
自分にはカーキ色について
よくわかっていなかった。


(6)西伯方中では、
1年から3年までの男子全員の体育を教えた。
懸垂を測定すると、
0回とか1回という生徒が意外に多かった。
私の中学時代は懸垂は
7回ぐらいだったと思う。
クラスではビリの方だと思った。
10回を超える子も結構いたと思う。
要するに腕力には全く自信がなかったのだ。
そこで、生徒と腕相撲をしてみた。
結構勝てたのだ。
どういうわけか腕相撲に
自信が持てるようになった。
その後機会あるごとに生徒と腕相撲をやるが、
ほとんど勝ってしまうのだ。

今治南中のキャンプファイヤーで
腕相撲大会があった。
そこで、体育のY先生に挑戦をしてみた。
全く歯が立たなかった。
何かがっしりしたとした
鉄の棒を握っている感じがした。
上腕の大きさを見ても
大きさが全然違っていた。


(7)小学4年ぐらいの夏、パン屋のT君と
竜岡の山奥へ昆虫採集に行った。
私はT君と遊ぶと、
おばあさんの焼き立てのふわふわのパンを、
いつももらえるので、楽しみであった。
昼暑かったので、谷川で泳いだ。
海パンを二人とも忘れたので素っ裸で泳いだ。
ところが女の子5~6人の声が
急にこちらへ近付いてきた。
こんな山の中誰もいないと思っていたので、
慌てふためくように着替えた。
キャーキャーいう声も
聞こえたような気がしたので、
見られたかも知れない。


今なら、女の子のキャーという声を聴きたくて
わざとお尻を見せたくなるような
歳になったような気がするが。
(ちょっと待って、
これってもしかしたら変態というのかな)


(備考)昔は、この竜岡は
今治の殆どの人は行く事のない
山奥の地の果てであった。
しかし、松山市へ抜けるトンネルと、
玉川ダム湖が出来てからは
交通の便利な観光地になっている。
私も月に少なくとも一度は行く。



(8)「先生なんでこんな所に、
居るんですか」
私は何十年か前の夏、
桜井海岸の浜で読書をしていた。

私は高校時代、試験の前は
よく海や山に出かけて勉強していたものだ。
机の上では1時間以上もたなかった。

すると、クルーザーが岸に着こうとしていた。
見ると若い男性3人と女性1人が乗っていた。
その女性のプロポーションがとてもよくて、
水着もビキニに近かった。
なんて素敵な女性が、
こんな今治にいるのかと思った。
私は、もっとよく見ようと立ち上がった瞬間、
相手の女性が発した言葉が、
「先生なんでこんな所に、
居るんですか」であった。

これ以後、夜店やお祭りの時には、
若くてきれいな女性を
なるべく見ないようにした。
元教師とは損な一面かも知れない。
しかし、もう私の教え子も
44歳を超えているので、
若い子を見ても
「先生なんでこんな所に・・・」
と言われなさそうである。


(9)PC8001の時代、エニックスが
ソフトウェアの募集をしていた。
これからはソフトウェアの時代が来ると読んだ。
ソフトバンクも動き始めたころである。
売れそうなゲームソフトを求めていたと思うが、
私は、自信作の重回帰分析のソフトを送った。


(10)ハバロフスクの空港で、トイレに入った。
小なのだが届かないのである。
当時の私の身長は自称170cm。
高校時代はクラスで3番目であった。
1番は178cmの浮穴君。
と言っても、現在では私の身長は平均以下らしい?
なにしろ私の少年時代はご飯にふりかけとか
醤油をかけて食べることも多かった。
肉を食べる事も少なく栄養の差であろう。
それにしても、小人用を探したが、見つからなかった。
つま先立ちをして用を済ました。
今思うと大の方で済ませばよかったのだ。



(11)安倍元総理の国葬、自民・村上元行革大臣が
欠席表明(2022年9月21日)を聞いたとき。


「国葬に国会の議決が必要」ではないかと言っておりますが、
これは1999年国民の代表の国会で法律としてすでに決めております

https://www.youtube.com/watch?v=5jNV7g6xVOM

私は、愛媛県民です。村上議員(東大)の存在が実に恥ずかしい。
 加計学園問題の時もそうでした。
今治市は1975年(昭和50)学園都市を目指しました。
 愛媛県(故加戸県知事(京大))と今治市(菅市長(第一薬大))が、
2018年(平成30)にやっと岡山理科大獣医学部を今治市に誘致できました。
約43年かかりました。歴代今治市長の悲願であったわけです。

 しかし当時,マスコミ(特にNHK、朝日新聞、東京新聞)は、
故加戸愛媛県知事の話は一切放送しないで、
出会い系バーに通っていた前川喜平(東大)の話のみを、
毎日のように放送していました。
なぜなら、
お金の流れが、日本獣医師連盟から、
少なくとも玉木雄一郎(東大)や石破茂(慶大)に各100万円ほど流れていたからです。
 つまり、NHK等のマスコミは、獣医師会にとって故加戸県知事の話は都合が悪いのです。
だから一切放送しませんでした(報道しない自由)。
その代わり、獣医師会や安倍政権打倒派(左翼)にとって
都合のいい前川喜平の話だけを報道したのです。
 おかげで、新聞やテレビしか見ない老人や一般国民は
安倍内閣はお友達内閣だと、信じ込んだようです。
田原総一朗(早大)や三橋貴明(都立大)もこの老人の仲間であろう。
同様に村上議員(東大)と中村愛媛県知事(慶大)も
安倍(成蹊大)内閣はお友達内閣だと言って、反対していました。
 つまり、村上議員(東大)も中村県知事(慶大)も
「加計学園問題は獣医師会の既得権益との闘いである」
ことを理解できなかったのです。
その上、村上議員は日本の為に動いてくれた安倍元総理を
「国賊」と呼んでいます。
 私は、村上議員(東大)と同じ今治市出身なので、実に恥ずかしい限りです。
どうやら政治力量と学歴とは殆ど関係ないようです。

 今の老人は新聞やテレビからの情報しかない人が多いのです。
しかし、若い人はネットからの情報も得られます。
例えば「NHKは何を放送してないか」とか、意識して視野を広げてください。
そして、
自分の頭で考えて行動してください。
①「お金の流れ」を見る ②「歴史」を見る ③「法律」の動きを見る
そうすれば世界の流れもわかり、日本も良くなると思います。
 安倍元総理の国葬反対と叫んでいる人々は、
私には、テレビしか見ない視野の狭い人々の集団のように見えます。

(備考)安倍元総理:8年8カ月の政権憲政史上「最長」の政権。
日米同盟の深化。地球儀を俯瞰する外交(80カ国)。
集団的自衛権の行使容認。Quad(クアッド・日米豪印)。
自由で開かれたインド太平洋。

トランプ氏「本当に偉大な人物であり、日本の首相であった安倍晋三氏に、
深い敬意と哀悼の意を表する。
率直に言って、彼のような人物はこれまでいなかった。
彼は国を愛し、自由と安全を守るために懸命に戦った。
私たちはとても親しい友人となったが、シンゾーほど平和への情熱を持った人物はいなかった。
世界は本当に素晴らしいリーダーを失った。
彼の言葉や考えは決して忘れ去られることはない。
皆から非常に惜しまれるであろう」

日本共産党:自衛隊は憲法違反だから無くすべきである。
しかし、もし他国から攻められたら、自衛隊を使う。
この矛盾に気が付かない政党に日本人の生命と財産を託そうと
思う日本人がかなりいることが心配。

憲法9条が日本を守ってくれる。
何しろ日本の防衛予算が0円で済みますからね。

立憲民主党:核は使用できないので、抑止にならない。
だから米国の核は要らない。原発も反対。
玉城デニー沖縄県知事:沖縄から米軍と自衛隊を無くせば、沖縄は独立できる。
そうなって初めて中国とも仲良く出来ると考えている。
私は、米軍が撤退すると、直ぐ中国共産党が入ってきます。
その後は中国の沖縄自治区となり、
沖縄県民は現在のウイグル族と同じ運命になると思っています。
そして例えば、中国国歌と中国語を喋れない人は強制収容所送りです。

洞口朋子(杉並区議会議員・中核):日米は中国への侵略戦争を起こそうとしているので国葬反対。
先日、中国が日本の排他的経済水域(EEZ)にミサイルを発射したが、
原因は日本政府にあると言っている。
つまり、中国共産党が沖縄・尖閣を侵略するのは、
日本が中国を侵略しようとしているのが原因であるとでも言いそうである。
こんな人を杉並区民がなぜ選挙で選んだのか?
私もかつて杉並区民であったので、恥ずかしい。

【国葬デモ】ひろゆきvs発起人の議員「安倍政治の美化に反対
https://www.youtube.com/watch?v=goI_ak5caok&t=629s


 私は、日本人の生命と財産を守ってくれるのは、
安倍元総理だけだと思います。


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は_初体験
(初めての事)
(1)キャンプ・・・
小学3年のときNo君
(愛光中・高→中央大法→弁護士)
の家族と桜井の浜へ行った。
夜のキャンプファイヤーでは
若い男女20人ぐらいが
毛布を使ってゲームをしていた。
例えば一方がキリンと言えば、
他方のチームが毛布を使って
キリンを組み立てるのであるが、
毛布の中からは女の人のキャーとか
アッとかいう声が聞こえてきた。
花火をするより、見ているだけで楽しかった。

(2)ティーバッグ・・・
中学1年の冬
1963/1月(昭和38)
大山へスキー(初体験)に行った。
その時H君の両親が後からきて
ティーバッグを湯に入れて紅茶を
飲んでいたのを初めて見た。

(3)エスカレーター・・・
小学生の頃、今治に大洋デパートが出来た。
実際は3階建ほどなのだが、
少しずらして6階建という事になっている。
エスカレーターもついていた。
この階段が動くという事だが
本当に乗れるのだろうかと、
不安でいっぱいであった。

(4)豪雨・・・
夏、北陸をドライブした時のことである。
激しい豪雨に襲われた。
ワイパーを最強にしても
全く役に立たなかった。
前も後ろも全く見えなくて、
危険を感じたので、
道路の左端の空き地を見つけて、
急いで避難した。
しかし現地のドライバーは時速10km位の
ゆっくりとではあったが動いていた。
この辺りでは
よくあることなのかなあと思った。

(5)肉離れ・・・
バドミントンでジャンピングスマッシュ
を決めたと思ったら
右足の肉離れ。
最初は筋肉痛だと思った。
治るのに1か月ぐらいかかった。

(6)初めての歌謡曲・・・
父が乳母車を竹で編んでいた頃、
従業員のササヤンに
初めて教えてもらったのは、
石原裕次郎の「錆びたナイフ」

(7)今治でのスキー・・・
昭和38年1月は大雪の為、
家の前でスキーをする。
5cmぐらいは積もったのではないか。
30cmぐらいの雪山を作り3mぐらい滑った。
楽しくてしょうがなかった。
これって、雪国の人が
見たらなんというのだろう。
これ以後は
こんなに積もった雪は覚えていない。

(8)安念山
幼少の頃の二人の遊びである。
硬い土の上に漢字を書き、その上に砂や土を
字が分からないように、かぶせます。
お互い相手の漢字の当てあいをします。
最初に使った漢字は「念」である。
これは当時のお相撲さん「安念山」からです。

(9)カメレオン
幼少の頃、ラジオの番組に
「20の扉」があった。
相手の選んだ言葉を、
質問数20の間に当てる二人の遊びである。
私が最初に選んだ言葉は
「カメレオン」であった。

(10)バックミラー
小学3年生の頃、学級新聞を発行した。
私は4コマ漫画の担当であった。
タイトルは「月光仮面」
その中で、初めて英語を使った。
月光仮面のバイクの「バックミラー」である。
当時、英語というのは長いなあと、思った。
そいえば、幼稚園生のころ、
図鑑にあった。
「エンゼルフィッシュ」も、
可愛いくて、小さい魚なのに、
なんて長いんだろうと、思った。

(11)県警
中学1年生の頃、夜勉強(?)をしていたら、
近所のH君がやって来た。
私の家は国道沿いにある。
その時、警察のパトカーが近くに停止した。
その時、H君は
「県警のパトカーが止まっているが、
何があったんだろうねえ」と言った。
急に大人になった気がした。
県警というのは警察とは
ちょっと違った雰囲気がある。

(12)「北方領土を取り戻そう」という看板を
初めて見たのは、根室でだ。
1976年8月。
私が北海道一周キャンピング旅行を
している時であった。
社会の授業中、私が、寝ていたのかもしれない。

(13)私が、ピザを初めて食べたのは、
東京の六本木であった。
大学のITAの仲間に連れられて行った。
何だか私も東京人の仲間入りをしたと思った。

(14)台湾の基隆から、香港へは、
イギリスの客船・台湾丸(10000トン)
で行った。
途中、東シナ海の真ん中で、
遥かかなたに雨雲を見た。
なんとその雨雲から
大雨が降っている光景を初めて見た。
雨柱である。
雨雲と共に黒っぽい雨であった。
雨の日には、よく見られるはずであるが、
その後、
こんな光景に、なぜか出会っていない。
しかし、最近、ゲリラ豪雨が多くなり、
巨大雨柱の写真を見ることが多くなった。

(15)幼少の頃、夏の夜店に行った。
家に帰ってから時計を見た。
午後11時であった。
こんなに夜遅くまで起きていたのは
初体験であった。

(16)私が、死人を初めて見たのは、高校1年の時。
深夜、勉強をしていると(?)
救急車が我が家の前を通った。
我が家は国道196号線沿いにあった。
急いでスクーターで追いかけた。
鳥生(今治の郊外)の川に車が落ちていた。
幅5mぐらいの川の橋の欄干に激突していた。
スピードの出し過ぎか居眠り運転であろう。
救急車の隊員が運転者を出そうとしていた。
すると運転者の首がだらんと落ちた。
首の骨を折って即死であった。
それを見た隊員は運転者を引き上げることなく
すぐに救急車は帰ってしまった。


(17)女の子に対して
<1>小学1年の時。
友人のN君「可愛い子がいるから来いよ」と言う。
付いて行った。
小学2年の女の子。うどん屋の子であった。
彼は遠くから、うどん屋を眺め、
その子が家から出るのではないかと、
じっと待ち伏せをしていた。
確かに可愛いいが、好きとかそんな感覚はなかった。
だから、家から出るまで、じっと待つなんて
私には、耐えられなかった。

<2>小学3年の時。学級で男子が
「A子が昨日、銭湯の男湯に来ていたぞ!」と言う。
当時は我が家に風呂はあったが、
銭湯にはよく行っていた。
これを聞いた時は衝撃であった。
私も性に芽生えたころであろう。

<3>小学5・6年の時。
仲のいい5人グループでよく行動していた。
女子はN子とS子。男子はS男、O男と私の3人。
私は、N子が好きであった。
一緒にバスに乗って、
今治の郊外の鈍川温泉に遊びに行った事もある。
しかし遊ぶときはいつもO男が、
女子2人を泣かすのである。
思うに男子3人は、みんな女子2人共好きであったと思う。
このころの男の子は、好きな女の子には、
いじめたりすることでしか、
好きである表現が出来ないのかも知れない。


(18)小6の時、野球部の練習の間の休み時間の時であった。
キンサンはホームベースから1塁に向かって、
一目散に走った時であった。
丁度同時に、ボカニーが1塁ベースからホームベースに
向かって走ったのであった。
ところが二人共前をよく見ていなかったのであろう。
真ん中あたりでなんと正面衝突をしてしまったのである。
練習も終わり近くで少し薄暗くなっていた。
二人共気を失ってしまった。
みんなで急いで渡り廊下の板を持ってきて寝かした。
しばらくして、二人共意識を戻したが、初体験であった。

(19)38歳(1982年.S57)の頃、食中毒にかかった。
朝の4時頃、急に腹が痛くなって、目が覚めたのである。
これは、食中毒かも知れないと思った。
私は翌週に南中で同和教育の研究授業を
する予定であった。
この日は、その同和教育の前の授業を
しておかなければいけなかったのである。
だから、我慢できる痛みであったので、病院には行かなかった。
なぜなら、もし食中毒なら一週間ほど入院させられたと言う話を
聞いていたからである。
つまり私の研究授業を他の先生に
頼むわけにはいけないと思ったからである。
 最初は前日の夕食が原因だなと思った。
しかし翌日、友人から電話があった。
前日の昼飯を東京から来た友人達と小島で食事をしたが、
これが原因であるとの事であった。
症状は、やはり人によって違っていた。

(20)42歳(1991年10/9.H3)尿管結石をした。
夜中1時頃、急に下腹部に激痛が走った。
盲腸かなとも思った。
食中毒の痛みには耐えられたが、
この痛みには耐えられなかった。
救急車を呼ぼうと思ったが、近所の迷惑になるので、
自分の車を運転して済生会病院まで行った。
待合室では1時間近く待たされた。
この時は、救急車を呼んだ方がよかったと反省した。
13年後の、55歳(2004年7/27.H16)にも尿管結石をした。


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は_反 省
(1),小学3年の時、
誕生日会でNo君
(愛光中・高→中央大法→弁護士)
我が家に泊まった時、
私も気が大きくなったのか、
習字の筆で大きく廊下の壁に字を書いた。
母親にこっぴどく叱られた。
二人でよく「待ちぼうけ」の歌を歌った。

(2)小学4年の時、5~6人の仲間で
日曜日の朝、日の出を見るために
朝の4~5時に近見山によく登った。
帰りは道なき道の山を降りてきた。
途中に開けた場所があり、
イチゴを植えていた。
これが美味しくて次の週も食べに行ったが、
地主の人に見つかった。
その後担任の先生にも注意された。
模範生の私が先生からおしかりを受けたのは
この件だけだと思う(何か!)。

(3)小学6年の時、
野球でレフトを守っているときに、
左中間の大きなライナーが来た。
抜ければ当然ホームランになる玉を
うまく捕った。
ベンチに帰ると監督に呼ばれた。
ファインプレーをしたと思っていたので、
褒めてもらえると思って
ウキウキしながら行くと
「なぜ直ぐにセカンドにボールを
戻さなかったのか」と注意された。

(4)小学6年の時、
自然科学教室に入っていたので、
石英や蛍石等の今治地方の岩石は
全て集めたと思っている。
ある時今治城の石垣を下から登っていき
持っていない石灰岩等を見つけると、
ワクワクしながら、
ハンマーでカンカン叩いた。
すると、今の私の年齢ぐらいのおじさんが
凄いけんまくの表情をして怒って来た。
当時の私は何故怒られているのか
ピンと来なかった。
申し訳ございませんでした。深く深く反省。

(5)戸塚第一中時代、
アドベンチャークラブの顧問をしていた。
ある時生徒に凧を作成して飛ばした。
屋上から飛ばしたと思うが、
都心の新宿である。
落下した後の凧の糸等の処理は
ちゃんとしたのか覚えていない。反省。

(6)戸塚第一中に新採で
授業を始めた初期の頃、
教室に入ると生徒全員が
後ろ向きに座っていた。
ここで生徒になめられてはいけないと思って、
「誰だ、出て来い!」
すると5人の生徒がスッと立ち上がった。
私は持っていた出席簿で叩いてしまった。
すると3人目で出席簿が曲がり、
4人目で出席簿の半分が吹き飛んでしまった。
放課後、担任のT(タッチマ)先生が
悲しそうにテープで補修していた。
それを見て私も申し訳ない気持ちがした。
そのうちに謝ろうと思っていたが
2015年(平成27)に亡くなってしまった。
本当に申し訳ありませんでした。
今なら後ろに小さな黒板もあったので、
たまには後ろに立って授業をするのも
楽しそうだと思う気持ちの余裕があるが、
当時は大学を出たばかりで若かった。
立った5人もみんな真面目な子だったね。
ゴメンナ。
その時、S(タワシ)先生には
「出席簿は横ではなく、
縦に使うほうが威力があるよ」と
教えてもらった。

(7)中1理科のテストが終わった夜、
電話があった。
「私は、国立東京K大学を出たものだが、
この理科のテストを見て1問も解けない。
少し難しいのではないか?」
そこで私は、
授業で教えたことだけしか
出題していないこと。
そして問題も答えも
ノートに全て
書いてあることを伝えた。
すると、
「息子のノートを見たが
何も書いてない」とのこと。
それまでは、
理科の評定には、テストの点数に
態度10点、自由研究10点を足していたが、
その後ノートの点数10点も
付け加えることにした。

(8)仕事で相手の名前を聞くことが多いが、
「雄」の字の確認に
「オス・メスのオスの字ですか」
と聞いたところ
「いいえ、エイユウのユウです」と叱られた。


(9)小学2年位の時、
現在は線路は高架になっているが、
当時は友人のNo君
(愛光中・高→中央大法→弁護士)の
家の前を線路が通っていた。
一度だけだと思うが、
二人で一円玉を線路の上に置きました。
反省。

(10)昔は缶ジュースのプルタブが
缶から切り離すものであった。
開山の上から誰が遠くまで飛ばせるか
生徒と一緒に飛ばしあいをしたものである。
反省。


(11)学校ナンバーワンの美しい女性
会う機会があった。
「ボストン」という喫茶店でデートを
する予定でした。
駅から降りて少し歩いていると
「ワシントン」という喫茶店を見つけました。
私はここだと思って、
1時間待ったけど会えませんでした。
当然振られました。
スマートフォンを使っている
今の若い人が羨ましい。

(12)都会的でセンスのある
きれいな女性と池袋でデートしました。
友人Aが一目惚れした子である。
ミニスカートはよく似合っているのに、
名前は大正時代の古風な名前でした。
地球と太陽の位置が
生物にとっていかに都合がいいか
という天体の話や、
生命の起源について
オパーリンの話を1時間ぐらいしました。
当然、振られました。反省



(13)中一の理科の授業中。
草食動物の目は横についています。
360度見渡して敵から身を守るためです。
これに対して肉食動物は目は前にあります。
跳びかかって捕える為に
遠近感がいるからです。
つまり、肉食動物は離れていた目が
だんだんと近ずくように進化したと思う。

すると、おっとりとしている Y.H 君が
「先生 K.M .さんは」と発言。
すると、クラス全員が一斉に
K.M さんの方を見た。
下にうつむいた彼女の目から
大粒の涙が落ちた。
私は、とっさの出来事に
彼女をフォローする言葉が出なかった。
反省。
実は彼女は目がチャームポイントであり、
原日出子に似ていて、
チャーミングな子であった。
Y.H 君も秘かに彼女に好意を寄せていた
事も私には読み取れたのだが。

彼女は現在小学校の教師(備考)

当時は彼女に返す言葉を思いつかなかったが、
現在なら、こう言うだろう。
「眼の間隔が狭い人は、
肉食動物のように男性的で、
性格がきつい人が多いと思う。
それに対して、眼の間隔が広い人は、
草食動物のようにやさしくて、
女性っぽい人が多いのではないかと思う。
例えば1.林田理沙(ブラタモリ)
2.多部未華子(ツバキ文具店)
3.奥原希望(バドミントン世界チャンピオン)
のようにね」

(備考) 教え子 K.M さんは、現在小学校の教師をしています。
当時国語の I・K 先生は、独身でした。
私が愛媛に帰った際に、
新規採用の理科教師として
赴任して来た男先生と結婚したそうです。
そして、出来た子供を教え子 K.M さんは、教えているそうです。
(教えてもらった先生の子供を教え子が教えている)
と言うことは、
もし、私が、愛媛の教員採用試験に合格しなかったら、
この子は、この世に存在していなかったということですね。
正に、Back to the future. の世界です。


(14)くじ引きの神様が
微笑んでくれたことがありました。
なんと、肝試しに私の一番好きな人
ペアーになれたのです。
私はもし好きな彼女が出来たら、
右手は彼女の肩へ
左手は彼女の手を握って私の腰へ回して
歩こうと決めていました。
これはすてきだなと思うカップルが
池袋のデパートのエスカレータに
乗っているのを、浪人時代に
見たことがあったからである。
そのチャンスが訪れたのである。

真っ暗闇の墓地の中、
右手をそっと彼女の肩に置いた。
夏の夜である。
彼女の艶のあるサラサラの長い黒髪が
私の右腕に触れた。
抵抗されることもなかった。
そして、左手は彼女の手を握って私の腰へ回した。
墓地の神様も味方に付いてくれたと思った。
暗闇の中、二人っきりで歩いた。
ロウソクの火のある目的地で
二人で名前を書いてくるのである。
途中あまり会話することはなかった。
後続のペアーを驚かそうと二人で
草むらに隠れた時も
ずっと右手は彼女の肩にあった。
この間、彼女をずっと私の腕の中に感じた。
このまま時間が止まってくれたらとも思った。
時間の経つのは早いもので
肝試しも終わりに近ずいたときに
彼女が言いました。
「どうしてあんなことをしたの?」と
聞いてきた。
(言っておくが、
右手を彼女の肩に置いただけです)
正直に、君が好きだから!なんて
男として、自分の気持ちを恥ずかしくて
言えるわけがない。
「・・・」
すると彼女は
「チャンスだから?」
と聞いてきた。
とっさのことで、私はいい言葉が思いつかず、
「ああ・・・」
と答えてしまった。
すると彼女は、私の左手を思いきり振り払って、
さっと離れてしまった。
その後
「阿部さんて、凄い人ね!」
とまで、言われちゃいました。
(反省!反省!反省!)!(階乗)


人生において、巻き戻しスイッチがあったら、
この時に、戻りたい。
丁度、「東京ラブストーリー」の
カンチと同じように思える。
カンチも私も地方の、何もない愛媛から
東京に出てきたばかりであった。
全てにおいて東京人に対して
自信がなかった時であった。
なにしろ当時、
彼女の周りは都会人ばかりであった。

「本当の気持ち全部、吐き出せるほど強くない」
(歌:マリーゴールドより)
当時の自分はやはり弱かったんだと思う。



(15)西伯方中の卒業生からの手紙に、
私のビンタがとっても痛かった、
と言うのが多かった。
給食当番のエプロンを忘れたり、
掃除をさぼった時に
ビンタを食らったというのである。
当時はその時の罰として、
とりあえず3回は口頭で注意する。
人間ならこれで反省するはずである。
それでもダメなら、
五つのメニューを提示する。
①運動場10週走る。
②反省文1000字。
③太い棒で軽くお尻を叩く。
④細い棒で思い切りお尻を叩く。
⑤ビンタ一発。
この中から生徒に選択させたのである。
ビンタが一番短時間で終わる
と思ったのかも知れない。

一番注意を払ったのはやはりビンタである。
生徒はとっさに避けるのである。
その時耳にかかると
鼓膜が破れる恐れがある。
また、口が開いていると、
歯で傷が出来出血することがある。
そこで、目をつぶらせ、歯を食いしばらせる。
私は中学生の時に不良に思いっきり
ビンタされたことがあるが、
大きな音がしたが
全然痛くなかった経験があった。
余程緊張していたのかも知れない。
最初は軽くしていた。
ある日、「先生のビンタ、全然痛くない」と
言われたのである。
それから力が入りだしたのである。
いずれにしても
現在では問題になる体罰であろう。
大いに反省している。ごめんなさい。
①運動場10週走る。
が体力作りにもなるので
次からはこれ一本にしよう。


(16)E君の父親は、
弓削商船高等専門学校の教授であった。
その父親を私は、泣かせてしまった。
原因は私のスクーター。
(深く反省)!(階乗)
もう53年も前,高校1年の時である。

当時E君は今治西高の近くに下宿していた。
夜はよく彼の下宿に遊びに行っていた。
当然私のスクーターで走り回った事もあった。
ある日の夜12時前のころ、
常磐町の大きな道路から、
後は、下宿までの約100mの暗くて、
細い道だけになった。

どんな会話をしたのか
定かではないが、多分
E君が「ちょっと運転させてみろよ」
私「ここなら、警察官もいないだろう。
車もいないからちょっと運転してみるか?」
といった感じだったと思う。
ところが彼が運転を始めて
2~3m進んだ直後、
ずっと先の暗闇の中に
お巡りさんらしき人影を発見!
急いで運転を交代したが、
バレてしまったのである。
多分近くの住民が「夜遅く不良少年が、
この辺りバイクを乗り回している」と、
県警への垂れ込みが
あったとしか考えられない。

担任は漢文の月原先生。
二人並べられて非常に丁寧なご指導を受けた。
今度やると停学とのこと。
当然,彼の父親にも話はいった。

「私の可愛い息子は今治では真面目に
一生懸命学業に励んでいると思ったのに、
とんでもない悪友が付いてしまった」と、
嘆いたに違いないと思う。
真面目な教授の目から涙を落とさせた
責任の半分は私にある。
申し訳ございませんでした。

E君の下宿には私も試験前には
勉強道具もよく持って行ったと思う。
彼は大変映画が好きで、
チャールトン・へストンのベン・ハーの話
はよく聞かされた。
彼はBB派(ブリジット・バルドー)で,
私はCC派(クラウディア・カルディナーレ)
であった。
「今度,007の映画を見に行くから、
お前もそれまでに彼女を
つくっておくように」とも言われた。
当時、E君にはおとなしく、品があり、
純日本的で、常にE君の
傍に寄り添っているような彼女がいた。
家庭騒動にならないことを祈ります。
少なくとも、奥さんの心配するようなことは、
一切なかった事を保証します。
その上、
「グループ交際以外は、絶対に認めない!」
と頑固に主張する、
担任の月原先生の目に常に見張られていた。

 ある時、私はT子さんから、
生徒会副会長の応援演説をして欲しいと
頼まれたことがあった。
私は、日吉中学校時代、
生徒会長をしていたので、
顔が広かったのを、
友人から聞いたのだと思う。
当時の日吉中学校は愛媛県下でも、
5番目のマンモス校であった。
さっそくE君に相談した。
すると、聖書に「求めよさらば与えられん」(マタイ第7章)
があると教わった。
そこで私は、体育館に集まった
全校生徒(1614人余)に向かって
「皆さん、彼女は求めているのです。
ぜひ彼女に与えてやってください」と、
両手を上げて、
大きなジェスチャーで訴えました。
生徒会選挙では大差で勝った。
これは彼のおかげだと思っている。

担任だった月原先生には、
その後も私はお世話になった。
私が愛媛県総合教育センターの
情報処理室に
在籍していた時、月原先生は
センターの主のように国語室にいた。
ここでも、非常に丁寧なご指導を受けた。
悪いことはできないもので、
私の後ろには常に月原先生に、
背後霊のように取りつかれて
いるような気配を感じている。

(17)私は、今治西高,
19期古希同窓会では、
ぜひインターバル動画を
撮影したいと思っていた。
インターバル動画とは、
一定間隔で撮影した静止画を1つにつなげ、
動画として残す撮影方法である。
この動画を見れば、
授業中に落ち着きのなかった生徒は
誰なのかが、
よくわかるのではないかと思うからである。
私は、51年も経つと、
顔の形はかなり変化していると思う。

DNAのコピーは、アナログであり、
エントロピーは増大する。
ですから変化するのが自然の流れである。

変化を少なくするには
かなりのエネルギー(努力)が必要でしょう。
ですから、
いきなり会うと9割以上はわからないと思う。
しかし、性格や行動はどういうわけか
あまり変化していないと思っている。
残念ながら、
私は旧友との昔話に夢中になり、
カメラをセットするのを忘れてしまった。
反省!

(18)大学1年の時、ITAの仲間と、
越後湯沢にスキーに行った。
夜の旅館の中で、私とY君は、
素敵な女性の2人組を見つけた。
ここは、プレイボーイY君の出番。
早速、彼女らの部屋へ行き、トランプなどで遊んだ。
その後、ITAの仲間たちが、
我々2人がいないのを心配して、
旅館中を声を出しながら、探してくれた。
我々4人の部屋の前も探してくれたが、
私とY君はここで、まだまだ彼女らと遊びたかった為、
彼らに返事をしなかった。
心配かけて申し訳ございませんでした。反省!

(19)小学校3~4年生のころである。
担任の先生は生徒に
読書を薦めたかったのであろう。
本を読んだらシールを張っていくのである。
真面目に読んでいては、
なかなかシールが増えない。
そこで、イソップ童話のような、短編集を選んだ。
順位はどんどん上がっていったが、
なぜか、後ろめたさが残った。

(20)戸塚一中時代、まだ教師一年生の時
足柄移動教室で野外活動の山歩きの時である。
私は生徒の最後尾の役割であった。
一番後ろの生徒について歩いていた。
ところが生徒との話に夢中になり
何故か前の生徒を何人か追い抜いてしまった。
教室に戻って生徒の人数を確認するときになって
初めて生徒の安全を確認していなかったことに気付いた。
つまり教師としての自覚に掛けていた。

(21)朝、戸一中(新宿区立戸塚第一中学校)に
登校して、驚いたことがある。
なんと職員室の先生方の机の引き出しが
全て開けっ放しになっていたのである。
どうやら、前日の夜に泥棒に入られたようである。
案の定、私の机の引き出しも開けられており、
警察が指紋の採取をしたのであろう
白い粉も付いていた。
そのころ生徒からの遠足か何かの集金もしており、
その集金袋も被害に合った。
いつもは鍵の掛かる引き出しにしまっていたのに、
この時に限って忘れていた。
被害額は数万円であったが、
学年会費から出していただいた。
大いに反省!反省!。


(22)Picture This というアプリがある。
植物をカメラで撮ると、その名前を教えてくれるのである。
無料で使えるというのを聞いて、早速インストールした。
当然、少しでも間違えると有料になりそうなので気を付けていた。
ところが、一ヶ月程して、調べてみると、2,200円(年間)引き落とされていた。
おまけにゴールドメンバーになっている。
カード番号さえ入力しなければ換金されないのではないかと言った、
甘い考えがあったのかも知れない。
考えられることは、「一週間の無料お試し」と言う項目があり、
それをクリックしたのかもわからない。
この場合において一週間以内に解約をしなかったので、
自動的に1年間のゴールドメンバーにされたという事です。
私としては、有料会員になるという選択をした意識は全くないので、
完璧に騙されたという思いである。


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ひ_ヒヤッとした時

(1)東名高速道路を走行している時である。
私の車をS氏が運転している時である。
追い越し車線を時速100km余りで
走っていたと思う。
S氏が「後ろの車が車間距離を開けずに
ピタッとくっ付いて来るのだが
どうしたらいい?」と聞いてきた。
「ブレーキランプをつけたら
少し離れるのではないか」
と答えた。
すると、自分の車でない分、
ブレーキペダルの遊びの感覚が
よくわからなかったのだと思う。
踏みすぎてあわや追突されそうになった。


(2)何年も前の風台風11号の時である。
2階にあるベランダが風の為に吹き上がり、
バタンバタンと大きな声を上げていた。
このままではベランダが
吹き飛ばされると思ったので、
私が錘になって、ぶら下がっていた。
すると突然、隣家の屋根の波板が破れ、
その破片が私の頭の直ぐそばをかすめて、
ベランダの屋根に突き刺さった。
ヒヤッとした私は、
急いで家の中に逃げ込んだ。



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ほ_私の方 法
(1)短距離走の走り方。
①前傾姿勢。
②母指球から着地、踵からの着地はダメ。
③足の膝はなるべく高くあげる。
出来るだけ胸近くまで。
④短距離走はスタートで決まる、
0.01秒でも速く。
⑤手は後ろに大きく、そして速く振る。
⑥手は米国のカール・ルイスを見たら
握ってはなく開いていた。
世界最速の選手は空気の抵抗も
計算しているのかもしれない。

(2)健康法。
①朝起きてから、1時間以内にトイレする。
②一日、8000歩を目標に。
バドミントンを1時間30分すれば、約8000歩。


(3)歩くとき。
①足は真っ直ぐに向けて歩く。
がに股にならないように。最短コースを歩く。
②母指球で押し出す。
③姿勢を正して歩く。
肩甲骨に意識を向けて、
胸を若干張りながら
正しい姿勢を保つクセをつける。
④腕を真っ直ぐ、大きく振る。


⑤と言いながら、本当はカメラを片手に、
五感を研ぎ澄ましてゆっくりと歩きたい。
今までの人生を振り返りながら。
反省することのみ多かりきかな。


(4)足型を取った時の分類法は
次の二つあると思う。
①土踏まずがはっきりしているかどうか。
②足の指跡がはっきりしているかどうか。
実は、②の足の指跡であるが、
これがはっきりと付かない人は
腰椎とか、どこかに悪いことがある人が
多いという事である。
ですから、歩く時は、
足の指跡がはっきりと付くように
歩くことにしている。


(5)クシャミをするとき。
姿勢を正しくしてすること。
以前生徒を横に見ながら、
体を倒しながらクシャミをしたら、
ぎっくり腰になったことがあった。
一週間近く動けなかった。



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ま_負けたと思ったこと

(1)小学4年の時、私はクラスでは
いつもトップであった
(すみませんね、いつも自慢話で)が、
2番はいつも女子の委員長である。
遊びに行ったことがある。
家の片隅に木のミカン箱が置いてあった。
こんなもんが、
なんでここにあるのか聞いてみた。
いつもこの上で勉強を
しているとのことだった。
そういえば机が見当たらない。
この瞬間なぜか負けたと思った。

(2)戸塚第一中のとき、
松井先生の理科の平均点を聞いたことがある。
平均
92点とのこと。
試験の発表が出ると、
確かに職員室の前の廊下は
松井先生の質問で長い行列ができるというか、
職員室に入れないほど、生徒が溢れていた。
私も負けずと平均点を上げようと
問題を簡単にしてみた。
平均
85点が限界であった。

(3)松井先生の理科授業を
見学させていただいたことがある。
まず課題を与え、
それに対して
”自分の考え”を書くのである。
その時の生徒の反応がものすごい。
たちまちのうちにノート1ページ分位を
すごいスピードで書き上げるのだ。
当然私も、同じような授業をしてみるが、
何でもいいから課題について思ったことを
書きなさいと言っても、
何も書けない生徒がほとんであった。

(4)大学2年の時、
43km飲まず食わずかち歩き大会
(新宿→青梅)に出た。
かわいい子を見つけ、
この子なら勝てると思っていたが、
東京女子体育大と聞いて
チョットやばいかなと思い始めた。
そのうち足が動かなくなってきた。
芝生のある庭を見つけると、
負けを認め、1時間半ほど寝てしまった。
393位 8時間34分。


(5)物心ついたころから、
毎日、朝と夜の歯磨きは欠かせない。
ところが虫歯が出来てしまった。
要するに適当に
磨いていたという事でしょう。
虫歯のない人を見ると、
負けたと思うし、かなわないと思う。


(6)私が妻と知り合ったのは、
台北であった。
当時は恵子姐さんの
通訳を介しての会話であった。
その後、彼女は日本語を、
私は北京語を勉強した。
半年後に再会した。
日本語で会話が出来た。
私の北京語は辛うじて話せた。
簡単に言えば、
漢字を英語の文法の順に並べて
発音すればいいだけである。
しかし、ヒアリングが全くわからなかった。
このことは、今でも私の妻には
完璧に負けたと思っている。


(7)今治の商店街でのことである。
私は今治の情報誌を配っていた。
私とほぼ同年代の男の人から道を聞かれた。
昼前であった。
「観音寺にはどう行けばいいのですか?」
私は、彼の乗っていたロードバイクを見た瞬間
負けたと思った。
後でスマホで距離を調べたら91Kmあった。



(8)戸塚一中時代。授業を終えて、職員室に帰った時である。
周りを教職員が取り囲んでいる真ん中に生徒A君がいた。
ヨーヨーを持っていた。
そして犬の散歩とか、色々な技を見せていた。
驚くほど上手であった。先生方の中からため息が聞こえた。
担任はT先生である。負けたと思った。
私なら、学用品以外は持ってきたら
一週間没収するだけである。
「先生方の前で見せて見ろ」とは言えなかったと思う。



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み_みっともない
(1)私の最初の車は、スバル360である。
ハイトップのある6段ギアである。
最高速度は92km/時であった。
高速道路では普通自動車を
360ccのスバル360で
追い抜く時が快感であった。
ある時、時速90kmで走行していると、
私のスバルを同じスバル360で
抜いてきた人がいた。
多分相手は速度は92kmであろう。
その時の相手の表情を見てしまったのだ。
体は前乗りで必死な表情をしていた。
私には全てわかるのである。
速度は92km/時も出すと、
スバル360は車全体に振動が伝わり、
正に今にも分解するのではないかと
いう恐怖に襲われるのである。
まさにみっともない表情であった。
それ以後私は、
時速92kmで追い抜くのを止めた。

その後、高速道路で事故を起こし、
救急車で運ばれたことがある。
夜であったが、
寝ているとやけに周りの景色が流れていた。
私は、体を起こしスピードメーターを
見てみた。
時速160kmを超えていた。
それだけではなくエンジン音が
静かであった。
多分2000ccのクラウンであろう。
スバル360とは別世界だった。
これ以後私は、普通自動車と争うのを止めた。


(2)松山の教育センターに毎日通っていた頃である。
町の中ではあるが、
朝早かったから、まだ車は多くなかった。
信号のない交差点での出来事である。
私は、一時停止をしたが、
向こうから来た、黒いトヨタクラウンは
そのまま速度を落とさず、
交差点をこちらに向かって、直進してきた。
すると、左から来た普通車と、
凄い音を出して衝突した。
この時のクラウンの全面の潰れた様子が
私の目に入った。
まさに豚の潰れた鼻のような格好で、
みっともなかった。
それだけではなかった。
車から大声で怒鳴り散らしながら、
降りてきた、黒スーツを着た人は、
その道の人らしかった。
黒スーツのその道の人と、
鼻の潰れたクラウンとのコラボレーション。
今なら、スナップショットに撮りたいシーンであった。

(3)波止浜の小さな町、
信号のない道路の交差点での出来事である。
私は、一時停止をした。
向こうから来た軽自動車と、
右から来た軽自動車も一時停止をした。
つまり、3台同時に停止した。ここまではよかった。
ここで、前の車と、右の車の運転手が、
お互いに道を譲る動作をした。
しかし、お互いに車を動かそうとしなかった。
しびれを切らしたのであろう。
前の車と右の車が同時に動き出して、しまったのである。
当然、交差点のど真ん中で、ガチャンと衝突してしまった。

(4)今治東予親善ソフトボール大会でのことである。
私は、2塁ランナーであった。
次の打者が上手くレフト前にゴロのヒットを打ってくれた。
ところが、この打球を私の足に当ててしまって、アウトになった。
この時まで、私は味方の打った打球をよけ切れないなんて、
自分には考えられないと思っていた。
しかし、この時は確かに避け切れなかったのである。
とっさに自分の行為の変更は無理であった。
味方の皆には、
みっともない自分を見せてしまったなあと思った。


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む_難しいと思ったこと

(1)戸塚第一中時代、
各クラスの遠足実行委員が
集まって決めた中に、
遠足にふさわしい服装」というのがあった。
これは意外に難しい。
そこで一度遠足の時に着る服を
持って集まろうという事になった。
そこで実行委員が判断するという事である。
サンバイザーを持ってきた生徒がいた。
これは実行委員では判断できないので
全員で決めることになった。
私は太陽が強ければいいと思ったが、
生徒の話し合いで禁止に決まった。
私は最初、服装を生徒に決めさせると
赤や黄色の派手な服装になると予想していた。
しかし意外に地味で
生徒も真面目なのだなと思った。
生徒の私服を見ると、
普段の生活態度とか
親の教育観なども見えてくる。
愛媛なら遠足の服装は
ジャージに決まっているので
実に簡単で教師も楽だなとも思った。
同じようにして移動教室や
修学旅行の旅館での服装も
全て生徒が決めた。
寝る時だって
普通のパジャマやTシャツである。
愛媛なら全てジャージ。
移動教室では
昼間運動で
汗で濡れたジャージで夜眠るのだ。
私自身だと出来ないが、
余計なことは考えない。
全てジャージ。
もし悩ましいネグリジェでも着てきて、
教師が問題を起こすのが
心配なのかも知れない。
(学年主任より)
愛媛の教育は実に単純であると思った。


(2)西伯方中で移動教室で
キャンプファイヤーがあった。
学年主任に
キャンプファイヤーをやってくれと言われた。
私は戸塚一中方式で実行委員を作り、
計画を作成した。
内容や係の生徒も決めた。
学年主任に持って行った。
すると、愛媛のキャンプファイヤーの形は
もうすでに出来ているので
その通りにやってくれとのことであった。
実に簡単であると思った。


(3)戸塚第一中の教育は色々な行事、
例えば水泳大会、学芸発表会、
遠足、運動会、修学旅行等は
全て生徒が計画を立て、
自主的に活動していたと思う。
基本はその生徒をどのようにすれば
持っている才能が生かせるのか、
幸せになるのかであろう。
ですから活動を通して
生徒の持っている能力を
最高に引き出していたと思う。
授業中死んでいるような子(失礼)も
この時とばかりは
目が輝いていたように思う。

それに対して愛媛の教育は、
理想とする生徒像があり、
その生徒をどのように指導すれば
その生徒像に
近付けるのかという事であろう。
生徒の服装から遠足、
運動会、キャンプファイヤーも
理想とする形が予め決まっているのである。

写真の展覧会を考えてみよう。
私は額縁は写真の個性を
より良く引き出すものである
と思っている。
例えば、(方法1)・・・
広がりを表現したい写真の場合は、
ヨコ位置に。
奥行きを表現したい場合は、
タテ位置の額を選びたい。
この写真40枚(40人の生徒みたいなもの)
を展示すると、
タテ位置やヨコ位置が混ざり、
並べる順番が非常に難しいと思う。
担任の先生は非常に大変である。

ところが、(方法2)・・・
どのような写真も額はタテ位置で
決めてしまう方法もある。
これだと写真40枚を展示する時は
比較的楽だと思う。
しかし写真の個性が少し薄くなる。
担任の先生は比較的楽である。

この展覧会場を見てみよう。
最初入って、
全体を見た感想は(方法2)の方が
美しく見えると思う。
しかし一枚一枚の個性は薄い。
(愛媛の教育)

しかし、(方法1)の会場では、
全体は少しざわついているが、
一枚一枚を見てみると、
その個性が引き出されている。
(戸塚第一中の教育)

そして、実際の社会は
(方法1)であると思う。
その上額縁は同じ色ではもちろんなく、
赤や黄色、紫と色々であり、
大きさまでさまざまである。
そんな感じがします。



(4)[Q.]一生さんの色々な動画を
見させてもらいましたが、
人生(じんせい)最良の時は、
教師時代なのですか?教えて下さい。
全部と言うのは、ダメです。



[A.]
「人生最良の時は、何時ですか?」
という質問は、
確かに難しいですね。
確かに教師時代も充実していて楽しかったですよ。
私のファンクラブもありました。
しかし大変だったことも事実です。
いい生徒に出会えて本当に良かったと思います。
こちらが、生徒に本気で大きくぶつかっていけば、
いくだけ、生徒からも大きく返って来ます。
教師時代は生徒によるところが、大きいと思います。

また、コンピュータのプログラムを
寝る時間を惜しんで組んでいる時も楽しかった。
また、楽しかったのは、やはり学生時代ですね。

 しかし、何といっても
台湾旅行して、好きな人に出会え、
一緒になれたのが、一番の最高だと思います。

と、いいながら、やはり正解は、
全部と言いたいですね。

今日まで常に、一生懸命に生きてきたつもりです。
そして、明日からも一生懸命に生きていくつもりです。

何しろ、死ぬときには、
「悔いのない人生を送ってきたなあ。」と、
言って見せたいからである。

青春時代が夢なんて、後からほのぼの想うもの
青春時代の真ん中は、道に迷っているいるばかり
青春時代が夢なんて、後からほのぼの思うもの
青春時代の真ん中は、胸に刺さすことばかり
(青春時代より)



(5)[Q.]返信有り難うございます。
まさか返信して下さるとは、思ってもいませんでした。
私もあの生徒さんたちと同じ位の1961年生まれです。
被写体の生徒の目、表情から一生さんに
好意を寄せている事が感じら、
よっぽど良い関係だったのだろうなと羨ましく感じます。

何故このまま教師の道を進まず辞められたのか?
退職後は、
コンピューターの会社をやられていたようですが、
順調だったのか?波瀾万丈だったのか?
阿部一生さんの歩んで来た道のりを伺いたいですね。



[A.]何故このまま教師の道を進まず辞められたのか?
についてお答えします。

これは、一言でいえば
「人生は一度しかないからです」
普通の人であれば、
そのまま教師の道を続けると思います。
しかし、私は、
教育関係のプログラムを組んで
みたいと思ったわけです。
 
確かに、教師への道は険しいと思います。
しかし、その分、
私の代わりの教師はいくらでも希望者はいます。

 例えば、新宿での教師時代は、
家庭訪問の時よく言われました。
ある父兄は、
「私の甥が、千葉県の教師をしているが、
東京の教師になりたくて
毎年、東京都の教員採用試験を受けているが、
なかなかなれません」
 
 教員採用試験でも、
東京都は中学理科で900人ほど受験しました。
新宿区の教諭候補は3人いましたが、
合格者は、1人。
(備考1)

 私が新宿区の教師を退職して
良かったこともありました。
同じ学年の教師の中に
独身の女性で国語の I先生がいました。
よく行事の後や、
毎月の学年会で飲んだりもしました。
私の退職後に、
新採の理科の教師が、戸塚一中に来ました。
たちまち恋仲になり、結婚しました。
戸塚一中で、
私の教え子が小学校の教師になり、
その
I先生の子供を 教えていた事を、
聞きました。(備考2)
これも、私の退職のおかげです。

 愛媛県では、中学理科で80人余り受験して、
合格者はたったの3人でした。
ただし、この年は、1966年ひのえうま生まれの生徒が
中学生になるので、
ほとんど中学校の教師は
採用しないと言われていました。
例年だと10人近く採用するようです。


 それに対して、
教育関係のプログラムを
組むような教師はそんなにはいないわけです。
私はそのことに挑戦しようと考えました。
S-P表、ソシオメトリー、ゲスフーテストとか、
言語による授業分析、・・・(備考3)
学校の先生にとって役に立つプログラムは
いくらでもあるのです。

二度とない人生なのです。
ここで、挑戦しないと、
必ず自分の人生を振り返った時に、
後悔すると思ったのです。

順調だったのか?波瀾万丈だったのか?
と聞かれたら波瀾万丈でしょう。

しかし、生活も気持ちも、変わりました。
 例えば、それまでは日曜日がありましたが、
その後は、
休みの日という思いはなくなったと思います。

 東京には日教組があるので、
教師の勤務条件はいいです。
それに対して、
愛媛県には愛教研がありますが、
これはどちらかというと教育研修会であって、
勤務条件なんてタブーです。
例えば、東京には勤務時間と
いうのがありますが、
愛媛には勤務時間という概念が
はっきりしないように思われます。
一つの見方で言えば、
学校に長く居ればいるほど良い教師なのです。
だから、教師生活では、
不平不満がありました。

しかし、自分が独立してからは、
不平不満は全くと言っていいほど、ありません。
毎日が、自分のやるべきこと、
したいことで充実しています。
日曜日がないといいましたが、
毎日が日曜日とも言えます。
しかし、休んでいては、収入は 0 です。
自分が頑張っただけしか収入は入ってきません。
日曜日といっても休めないのです。
それゆえ、厳しいのです。

後悔はしません。
また、常に後悔をしないように生きていきます。

だから、今日まで常に、
一生懸命に生きてきたつもりです。
そして、明日からも一生懸命に
生きていくつもりです。

何しろ、死ぬときには、
「悔いのない人生を送ってきたなあ。」と、
言って見せたいからである。



[Q.]お答え有り難うございます。
人間、阿部一生さんに興味がありましたが、
あのまま教師を続けられていたのなら
興味がわかなかったのかも知れませんね。
退職しコンピューターの会社をやられる、
大胆さ、積極性に興味があったのかも知れません。
生徒たちも、中学時代に一生さんのエネルギーを
感じ取っていたと思います。
自分も、一生さんの担任の生徒になりたかったが半分、
もしかすると、ついて行けなかったかな?
が半分です笑い??
一生さんが教育という物に
興味があるということを物凄く感じます。

自分も20代後半にサラリーマンを辞め独立し、
一生さん同じく不平不満は、いっさいありません。
ただ、不安は、あります。
これは、しょうがない事だと思います。
自分も一生さんと同じく後悔してません。

ユーチューブ、自分で出演してみたらどうですかね。
愛媛、台湾の一生散歩でもいいじゃないですかね。
生徒さんたちも喜ぶと思いますよ。

一生さんは、これからも Now is all ですね!
今回、ネットを通じて一生さんと
出会えた事を感謝しております。



[A.]銚子与太郎さんに感謝します。
私の教え子にブー太郎(戸一中)がいますが、
彼の顔を思い出しながら返事しております。
二度とない人生なのです。
お互いにがんばりましょう。


(備考1)東京都の教員に採用されたのは、
次の3つの事が大きいと思われる。
①中学時代生徒会長をした。
②学生時代にヨーロッパ一人旅をした。③妻が台湾出身。
なぜなら、採用してくれた戸一中の校長が私に戦前は満州の中学で
理科教師をしていたことを、懐かしく話してくれた。
また、教員採用の面接では
私はヨーロッパ一人旅の話をしただけであった。

(備考2)もし、私が愛媛の教員採用試験に不合格なら、
I先生の子供はこの世に存在していません。
正に「Back to the future」の世界ですね。
前年は採用試験に不合格。
30歳の年齢制限があるので最後の試験であった。

(備考3)私が作成した教育プログラムは、300種以上。1万本以上販売。
又、全国の都道府県の教育センターから注文を受けた。
ソフトバンクの営業マンに感謝。
ただし残念ながら納入出来たのは、1/3の都道府県。
理由はソフトウェアはMSDOSからwindowsの時代に
移り変わっていく最中であった。
私のソフトウェアはMSDOSであった。
2年、時代の流れに乗れなかった。



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や_やっぱりと思った

(1)甲賀流忍術屋敷の
近くの山道を下っている時、
私の車にピタッと
くっ付いて走ってくる車がいた。
これでは私はブレーキを踏めないので、
左に寄せて追い抜かせた。
しばらく走ると、
前に2台の車がくっ付いて止まっていた。
先ほどの車だ。言い争っていた。
その前を見ると
タヌキらしき生き物が倒れていた。
追突事故を起こしていたのだ。
やっぱりだと思った


(2)T先生
戸塚一中の時代、冬になると週末は
よく先生仲間で車を連ねてスキーに行った。
途中交差点で、前の車の運転手の判断が
良くなくて、助手席に座っていた私は
いらいらした。
たまりかねて私はクラクションを押そうと
手を出そうとした。
すると、T先生は私の手を押さえた。
私は、やっぱりと思った。
何しろ、T先生は「やさしさの塊」として
戸塚一中では名が通っているからである。


(3)映画「男はつらいよ」がH31年、第1作公開から
50年を迎えるとのことです。
50年前と言えば私は大学1年生。
このころ横浜の友人Y君がいた。
彼は、神宮球場でバイトをしていた。
ヤクルト戦が遅くなって終電に間に合わない時は、
よく私の下宿に泊まった。
ヤクルトの入った小さな段ボールをよく
手土産に持ってきてくれた。
ある日「寅さん」の映画を見て来たという。
寅さんがスクリーンに現れると、
観客から「いよオー、寅さん」という、歓声が
上がるという。
第1作からこれだから、
第49作まで続いた理由が分かるような気がする。
 寅さんのようにのんびり生きる自由が
どんなに大切であるか。
またそれを心の中で求めている
若者の歓声であったのだと思う。


(4)冬の蒜山高原での出来事である。
国道をはさんで、向こう側にいる親が、
道路を走っている車が近付いてきたので、
危険だと思い
「車が来ているから、危ないよ」と
大声で叫んだところ、
「お母さん何」と言いながら、
道路を横断して母親の方に走ってしまった。
その時に自動車にぶつかってしまった。
2~3歳の男の子であった。
急いで救急車を呼んだが、
生命に危険は無さそうでホッとした


(5)テレビドラマの「東京ラブストーリー」とは、
愛媛から東京で仕事を始めた
若者のラブストーリーである。
愛媛出身の永尾カンチを好きになった、
赤名リカが、ぜひカンチの育った
愛媛に行きたいと言う。
その中でよく出たのが、
「愛媛って何にもない所だよ」
現に私も新宿の教え子達が伯方島に来た時、
大三島大橋に連れて行った。
「先生、ここは本当に
時間が止まっているようだね」
そうです。「何にもなく、時間が止まっている」
のが、愛媛の良さであるのである。
都会人でなければ、
この良さはわからないのではないか
と思っている。


(6)戸塚一中時代である。
クラブ活動の紹介文についてである。
顧問はクラブに入ってもらうために、
良い所を色々と紹介していた。
S(タワシ)先生は、
バレーボールの顧問であった。
クラブ紹介文は、
「バレーボールをする」だけであった。

(7)ヨーロッパ32日間一人旅の時。
オランダのアムステルダム。
レストランにいたときである。
ある人が、私にテレビを見ろと言ってきた。
見ると東洋人が映っており、
チャイニーズ!チャイニーズ!と言っている。
1970年。この頃は、東洋人といえば、
中国人という認識であったのであろう。
日本人は,ほとんどいなかった。
私にも、オランダ人とドイツ人、
ユダヤ人等の区別はできない。


(8)「林修の日本ドリル」を何気なく見ていた。
半径1キロ以内に70軒のラーメン店が
ひしめき合っている場所があるというのである。
場所は高田馬場なので、
早稲田大学の学生が多いからだと思われるが、
どうやらそうではないらしいのである。
最初の一軒を探してみた。
早稲田道りと明治道りの交差点に
ある店とのことであった。
ここには、かつて私が勤務した(1973年~1978年)、
戸塚第一中学校があった。
そして、道路をはさんだところにある
「えぞ菊」がそうだということなのである。
この時、私は、やっぱりだと思った。
当時たった一軒だけ「札幌味噌ラーメン」店が
あったとのことである。
そういえば、当時朝4時まで営業していた。
当時、K先生らとよく麻雀していて、
電車の最終便に間に合わなくなったときは、
よく戸塚第一中学校にみんなで泊まった。
夜遅く、K先生らと戸塚第一中学校に来ると、
いつも「えぞ菊」の前には、
タクシーの行列が出来ていた。
ここは、当時タクシーの運転手の
口コミで広まったと聞いていた。
その後、2002年に「俺の空」が
日本一のラーメン店になってから、
一気にこの周辺にラーメン店が増えたそうである。
私のいた高田馬場はその後、
相当変化したのだなとも思った。


(9)スマホの写真で最近驚いたことがある。
玉川湖の写真を撮った。
下のあるマークを触ると、その写真と
似ている風景写真を検索して探してくれた。
驚いた。
自分の彼岸花の写真を使ってみた。
いろんな人が写した彼岸花が出てきた。
次はどのアングルで撮ろうかと、
参考になる。
そこで、自分の顔を写した。
世界中の登録された顔の中から、
自分と似ている顔が検索される
のではないかと興味津々であった。
どの国の人の顔に似ているのかと。
残念ながらそうはならなかった。
しかし、そのうちに顔認証の技術を使えば
可能ではないかと思っている。



(10)H君、ITAの仲間で
品川スケートリンクに行った事がある。
彼のスケートの技術は、目を見張るものがあった。
出身の高校は札幌だと聞いてはいたが、
やっぱりと思った。
フォークソングクラブの部長もしていたとの事。
さすが、ギターが上手で、
歌うときはみんなの中心にいた



(11)戸一中で新採の教師のころ、
塚本校長が私の授業を見に来てくれた。
よっぽど私の授業が成立しているのかどうかが
心配だったのだと思う。
この時、指導してくれたことが、
「・・・だと思うんだけと」というのが多いが、
ここは「・・・です」とはっきりと言うほうがいいとの事であった。
確かにその通りである。しかし「・・・です」と言う為には、
それまでにかなり教材研究をして指導内容に
自信を持てないと、言えないものである。
私の場合、中学の理科を1~3年生まで
教える3年間は自信を持てなかった。

 教え子からの手紙(1/2)のT君からの中に
「まだ私達が現役の中学生の頃は、
まだ
「学生」という感じがしました。が、
先日、高田馬場の駅でお目にかかった時は、
とてもそんな感じはなく、
随分
「教師らしい」顔になったな、とびっくりしました。
ともあれ、中学には随分慣れた感じで安心いたしました。
私も信じられない話ですが、・・・」

(12)写真教室のテーマは
「白い紙の上に物を置いて写真を撮る」であった。
そこで、私はウイスキーの瓶を
白い紙の上に置いて撮ってみた。
私は白い紙の部分が多いと、
ウイスキーの瓶が弱くなるので、
ウイスキーの瓶が主役になるよう白い紙を少なく撮った。
 ところが写真教室に出てみると、ある人は
ワインをワイングラスに注ぎ、
横から光を当てると影が出来ます。
その白い紙の上に出来た陰の
グラデーションを撮って来ていました。
そうです、写真教室のみんなは、
”白い紙と光や影”が主役なのです。
つまり、白い紙の上の物語を撮っているのです。
白い紙の上に置いた者を主役にして写真を撮ってきたのは
14人中、私一人だけでした。
ですから持って行った10枚の写真を
恥ずかしくて発表できませんでした。
やっぱり自分には芸術の才能はないのだなあと、
認めざるを得ませんでした。

私のアルバムには
「ユニソン錬成塾」→「私のアルバム」→「趣味」→「静物」(h1620)
としてYouTubeに載せています。


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よ_幼少から変化したこと (変化)
(1)私の幼少期は母の実家のある
喜田村での生活が多かった。
夏の夜はホタルが飛び交っていたが、
今は全然見かけない。

(2)母の実家の前は広い田んぼであったが、
今は広い産業道路になってしまった。
70年近く前の事だが、
今でも田の向こうにあった、
大きな黒い納屋のある家まで、
鮮明に覚えている。

(3)小さいころ飲んだ牛乳は濃く、
その味は覚えているが
現在は探しても飲めない。
サケの魚が小さい頃の川の味を覚えていて、
そこへ帰る気持ちが分かるような気がする。

(4)小学校の頃、
通学路の横を流れていた
泉川の川の色は、
上流にタオルの染色工場があり、
毎日川の色が変わっていた。
赤だったり、青だったり。
しかし、現在はきれいな水になり、
コイとかの魚が泳いでいる。素晴らしい。

(5)自動車の方向指示器だが、
矢羽式方向指示器が見えなくなった。
手信号みたいなもの。

(6)私の幼少の頃、
父は竹で乳母車を作っていた。
その竹は馬車で我が家まで運んできた。


(7)私の幼少期、うどんは20円。ラーメンは30円。
喫茶店のコーヒーは60円。
大人ってすごいなあと思った。
どう見てもコーヒー1杯より、
うどん3杯の方がいいと思ったからだ。

(8)コピー機。1991年、平成4年頃。
コピー機は100万円以上した。
10年のローン返済を組んだ。毎月1万円返済。
それが、現在は1万円余りで買える。
(残念ながらトナーが2万円もする)

(9)コピーもできるカラープリンターが
最近は1万円余りで手に入る。
私が、最初に買ったプリンターは
16万8千円程度した。
当然白黒のみである。

(10)Faxも1991年、平成4年頃。
10万円以上した。
それが、現在は1万円余りで買える。

(11)私が幼稚園児のころ
町中に「昭安幼稚園」があった。
その跡地に、現在は老人の居宅介護施設
が建っている。

(12)最近は検便の容器が小さくなり、
量もほんの少量でよくなった。
小学生の頃はマッチ箱の中に入れて持って行った。
マッチ箱の大きさも各自バラバラであった。
中にはマッチ箱が開いて外にはみ出ていた子もいた。
検便を集めて
保健室へ持っていくのは保健委員であった。
保健委員が「誰だよ」と言いながら、
鼻をつまんで、保健室に持って行っていた光景を
未だに忘れられない。

(13)私が幼少の頃の旭町3丁目の様子。
国道196号線沿いの100m程の道路である。
我が家は乳母車店で、父が竹で編んだ乳母車も販売していた。
1955年(昭和30年)当時、
乳母車店はあと今治の商店街に2軒あったのは覚えている。

旭町3丁目にあった店は、
理髪店、駄菓子屋、貸本屋、醬油店、自転車・氷・文房具店、
タオル工場、食器店、自動車修理店、我が家の乳母車店、
布団店、金物店、八百屋、うどん屋、ウナギの料理屋、お菓子屋。(18店)

向かい側の道路は、お菓子屋・食堂、製材所、
八百屋、肉屋、履物店、酒工場、八百屋(8店)であった。(計26店)

またすぐ隣には、玩具屋、薬屋、こんにゃく屋、郵便局があり、
ちょっと歩いただけで生活が出来た。

しかし、2021年(令和3年)現在は、会社、建材屋、料理屋、金物店、楽器店。(5店)
向かい側には、肉屋、酒工場、マッサージ店(3店)と激減している。(計8店)

当時私と同年齢の小さな子供達も、15人ほどいた。
時に、夕方になると、我が家の店にあった、古いスケートや自転車で
みんなで戦争ごっこをして遊んだ。
毛糸屋の横の歩道では、みんなで三角ベースの野球もした。
子供が直ぐに集まるので、紙芝居屋もよく来ていた。
昔の歩道は今の1.5倍ほど広かった。

そうです、我が家の前の歩道は遊び盛りの子供達であふれていました。
しかし、今は、そんな子供達は一人も見ないし、いないと思う。


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よ_予想出来なかったこと
(1)カラオケ・・・
戸塚一中時代(1974年、昭49頃)、
テスト期間中は
校区で遊んでいる子がいないか
確認したら、早く帰った。
ラジオを聞きながら
テストの採点をした。
カラオケコーナーがあった。
知らない音楽ばかりで、
面白くもなんともない。
そのうち消えるだろうと思ったら、
こんなに普及してしまった。

(2)テレビ・・・
小学1年の時(1956年、昭31頃)は
クラスでテレビのあるのは
ナカチュウぐらいであった。
クラスで1~2人。
我が家には縁がないと思っていたら
小学4年位の時に買えた。
「名犬ラッシー」「パパは何でも知っている」
をやっていた。

(3)自動車・・・
家には買えないだろうと思っていたら、
中学3年位(1964年、昭39頃)の時に買えた。
お尻の下がった、
渋い灰色のブルーバードであった。
仕事に使うので、ライトバンでよかったのに
無くて、2割程度割高の
エステートワゴンにした。

(4)パソコンのデータ保存は
最初はカセットテープであった。
(1979年、昭54頃)
次は容量の大きなビデオテープに
なるだろうと思っていたら、
フロッピーディスクになった。
8インチはそれ以前からあった。
その後、5インチ、3.5インチになった。
次にCDなのだが、
最初は金メッキであった。
一枚1000円余りした。
今では安い材質を使い
こんなに普及してしまった。
現在は、DVD、
USBメモリーやSDカードである。

(5)電卓は、
1973年カシオから
カシオミニ12800円が発売された時、
父の為に購入した。
1977年シャープのエルシーメイト8000円は
自分が購入。
現在のように百円で買えるなんて
全く想像出来なかった。

(6)大学対抗ソフトボール大会で、
2アウトで私が2塁ランナーであった。
次打者がレフト前のヒットを打った。
普通なら私は3塁止まりであったが、
私が帰れば同点となるので、
ホームまで走った。
私は思いっきり右手をホームにタッチした。
クロスプレイになったがセーフ。
私はピッチャーをしていたが、
少し右腕に痛みがあった。
その後、1点追加して、
この試合は勝利をおさめた
(本当は負けたほうが良かった)。
2回戦ではすこし右腕の痛み
(まだ筋肉痛だと思っていた)のために、
ピッチャーからファーストへ
さらにセカンドへ替わった。
ゴロが来たので急いでファーストに投げた。
するとなぜかわからないが倒れたのである。
友人は「バキィ!」と聞こえたらしいが、
私には何も聞こえなかった。
両手を地面につけているはずなのに、
右手が見えなかった。
これは大変だと直感した。
右手は肩の後ろにあった。
急いで救急車を呼んでもらった。
つまり、右腕の痛みとは
骨にヒビが入っていたという事なのである。
骨は丈夫で折れることはないと
信じ込んでいたのである。
それにしても
誰かがビデオを撮ってくれていたら、
衝撃映像となっていたはずである(2004/11/3,H16)。

(7)茶髪。1995年(平7)頃、
私の勤めていた保険会社には、
茶髪の女性事務員が一人いた。
目立っていた。
現在では普通の景色である。

(8)私は、学生時代、
アマチュア無線の免許を取った。
1972年(昭47)
家との連絡に電話代がいらない
ぐらいの考えであった。

1992年(平4)頃、
知り合いの病院の奥様が、
自動車電話を使っていた。
私には縁がないと思っていた。
現在は携帯電話から、
スマホの時代になった。
世界中の情報が、何時でもどこにいても
瞬時に手に入る時代になった。
全く私の想像を超えた時代に
なったものである。

(9)イチロー選手が
あんなに大記録を作り上げる
プロ野球の選手になろうとは、
私は予想できなかった。

(10)小学校4~5年生の頃。
子供の科学に、
バルサ材で作る競争自動車があった。
早速作ってみた。
モーターと車輪のギヤ比を変えると、
自動車の速さが異なることに気が付いた。
そこで、もっと速さを出そうとして、
ギヤ比を大きくしていった。
今度は、とてつもないスピードが出るぞと、
ワクワクしながらスイッチを入れた。
全く動かない。
最適なギヤ比があるのだなあと思った。

(11)PC8001のゲーム募集があった。
1981年(昭和56)頃である。
BASIC言語たった1行で遊べるゲーム募集であった。
1行の命令とは、アルファベット256文字以内である。
こんな少ない文字数の命令で
ゲームなんぞ無理だと思った。
その後、応募された作品の数を見て驚いた。
日本の中にはゲームやプログラムに得意な人が
こんなにもいるのだなあと、
驚くとともに、感心してしまった。

(12)まさかの骨折
小学生低学年のころである。
冬休み中は地区の行事として毎朝ラジオ体操があった。
場所は今治城である。
体操のあと友人と追いかけっこをしていた。
友人のM君が高さ1mあまりの銅像から
何時ものように飛び降りた。
運悪く足を骨折してしまった。
多分自分の思いではなく、
落ちた感じであったのだと思う。

特別出演

(T_1)
ギリシアの時代、
10万人をこえる都市は
出来ないと考えていた。
なぜなら昔の直接民主主義では
お互いに話し合いで進めていくので、
これを超えると人の声が聞こえなくなり、
話し合いが出来なくなるだろうと考えた。
つまり拡声器が発明されるとは
想像できなかったということである。

(T_2)遠くにある星が何でできているのか
永遠にわからないと考えた。
現在ではスペクトルをとれば簡単にわかる。



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わ_忘れられないこと
(1)台北で食べた、小さな椀に入っためん。
一杯60円程度。

(2)香港で飲んだ飲茶の美味しさ。

(3)幼いころ飲んだ牛乳の味。

(4)中学の修学旅行でのことである。
見学を終え、バスに乗り込んだ。
座席が一杯だったので、
補助席を倒して座った。
ところが、隣に座っていた私の好きな
彼女のスカートの上に
座ったみたいであった。
彼女は顔をおおきくふくらませ、
私を睨みながら自分のスカートを
両手で引っぱった。
その顔があまりにもかわいくて、
今だに忘れられない。
その修学旅行のバスの中で、
彼女が歌ったのは「ドミニク」。


(5)中学3年の時、M中の友人(後に国立O大学教授)
と吹揚城(今治城)に遊びに行った。
ここでも、M中の不良2人の恐喝に会った。
金は持ってないと答えると、
おもっきりピンタを食らった。
大きな音はしたがそれほど痛くはなかった。
「じゃあ昼から持ってこい」「わかった」
「とりあえずお前の自転車で
俺の家まで送れ」
「わかった」。
商店街の裏にあった不良の家まで送った。
当然昼からは、
ボーイスカウトもあったし行かなかった。
不良の家は今でも鮮明に覚えている。
どうしても忘れられない家である。


(6)石垣島、
川平湾の美しさ
40年以上たった今も脳裏に焼き付いている。
またとれた魚も赤や黄色で、
色鮮やかであった。

(7)小学3年の頃、
待ち遠しかった運動会が雨で順延になった。
その雨は1週間ぐらい続いた。

(8)小学6年の時、職員室の前に
大きな石鹸で作られた猿の像があった。
その頭を、
横を通る生徒がみんな撫でて通るので
頭の天辺が異様に光り輝いていた。


(9)小学6年の時、友人と笠松山に登った。
途中ハルゼミを私が採った。
私は、この地方にいるセミを全て採って
あとはこのセミだけで
あったので満足であった。
キンサンが「初めてなので見せて」という。
「逃げるかもしれないのでダメだ」というと、
「絶対逃がさない。
もし逃がしたら、死んでもいい」
そこで渡した。すぐに逃げられてしまった。
現在もキンサンは元気に生きている。


(10)小学3年のとき、
みんなダルマを作った。
それは担任の阿部敦子先生が
「人生七転び八起き、
何度失敗しても
くじけないで頑張ってください」と
言ってくれたのだと思う。

(備考)漫才師・内海桂子より
一つ、人生は七転び八起き。
今日がダメでも、明日がある。
転んだら起き上がればいい。
一つ、大笑い、色恋忘れず、
意地なくさず。
一つ、人生はすべてが肥やしになる。
だから、すべてがよし!

「人生は七転び八起き。転んだら起きればいいんです。
人は死ぬ気になれば、だいたいのことはできるはずだし、
下り坂があるから、また上れるんです。
下りっぱなしなんてことはないんです。
今日がダメでも明日がある。
関東大震災も戦争も生き延びてきた私が言うんだから、
間違いありません」

「内海桂子師匠は900歳だろ?」
「バカだね。そんなわけないだろ」
「なんでだよ」
「そんなに生きられるほど金持ちじゃないよ、桂子師匠は」

(11)小学5~6年はY勉強屋(塾)に
通っていた。
毎日分厚い「算数自由自在」を
片っ端から必死で解いていた。
一方Y女先生は優雅に山水画を描いていた。
ペンと指で描いた竹が非常に奇麗であった。
この画風はその後見たことがない。


(12)幼少の頃、
友達と今治城の石垣の穴に
入ったことがある。
逃げ道だと思ったが、
大人は無理だから下水の穴であろう。
懐中電灯を持ってだんだん奥に進んだ。
狭くなったあなの先は今でも忘れられない。


(13)小学4年ぐらいの時、
同じクラスの高須賀Kさんが、
発明工夫展で愛媛県知事賞をもらった。
白い杖(つえ)に 小さなガラスを 3枚張り付けた
だけのものであった。
車のライトが当たると、
光が反射するだけである。
これは近所で高齢者が
交通事故に遭われたのを見て、
思いついたとのことであった。
これ以来私は、彼女の優しい気持ちに
いっぺんにひかれていった。
今でもその気持ちは忘れられない。

(14)浪人時代、雑誌の人生相談を見た。
回答者は[眠狂四郎]で有名な柴田錬三郎である。
「才能のある人間は勉強なんてしなくてよい。
しかし、これと言って才能のない人間は
勉強しなくちゃいけない」
と言った内容を答えていた。


(15)「不知火頭巾」という映画のタイトル。
小学生の頃、近くの大劇で見たと思うが、
内容は全く覚えていない。
しかし、タイトルだけは未だに忘れられない。


(16)中学3年の時である。
次の教室へ移動するために
渡り廊下を歩いていた時である。
こちらを向いて、満面の笑みを
浮かべている少女に出会った
かわいくて、黒目が大きく潤んでいた。
我が人生で最高の笑顔に
出会った瞬間であった。
一目惚れというのだろう。
その日一日が輝いていた。
1学年下であった。
たったの彼女の笑顔一つ、
その瞬間に心が奪われてしまった。
その後にも女性の笑顔には何千何万回と
接してきたがこんな気持ちに
なることはなかった。
なんと不思議なことであろうか。

彼女とは一度も話したことはない
いや、一度だけチャンスはあった。
学校の帰り、雑踏のある町のど真ん中である。
商店街が始まるドンドビ交差点である。
8mぐらい私の前を彼女が一人で歩いていた。
しかし、あと数メートル歩けば、
彼女は左折、私は右折する。
一緒に歩いていた友人が
「おい、声を掛けてやれよ!」と
言ってくれた。
私は勇気を振り絞って、
彼女の名前を叫んだ。
しかし、緊張していた私の声は
上ずってしまって大きな声は出なかった。
自分でも、どうしたんだろうと思った。
聞こえたのかどうかはわからなかった。
ただ彼女は後ろを振り向くことなく、
何事もなかったかのように
左折してそのまま歩いて行った。
もし、もう少し大きな声が出ていたら、
もし、もう少し私に勇気があったら、
もし、車の騒音のある町の
ど真ん中でなかったら、
もし、風が吹いていたら
聞いたかもしれない。
君は振り向いて、も一度たずねるだろ
 けれども知らないふり
そのまま歩いてゆく。
50年以上たっても
決して忘れることの出来ない
私の青春である。


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